【3・11 東日本大震災福島原発事故特集】

小野寺信一弁護士との対談の全文

【杉井厳一】
 今日(2011年6月2日)は小野寺信一先生を仙台からお招きしています。この約束をしたのは市民オンブズマンの活動について少し教えていただこうということだったのですが、今回の震災で地震、津波とか原発を受けて現地で活動をされているということで、我々としても実情をきちんと知ってどういうふうに考えていくのか、いろいろな支援活動は始まっていますけれども、一番生で感じておられる先生からいろいろ教えていただくことが一番よろしいのかと思っています。そういう意味で小野寺先生をお招きしました。ご存じのように、小野寺先生は27期で36年くらいやられています。先生は、市民的ないろいろな活動とやっておいでになって、市民オンブズマンの活動は全国的に有名ですが、薬害のオンブズパーソンの活動もしています。今日のお話を大変楽しみにしております。

【小野寺】
 仙台から参りました小野寺です。どうぞよろしくお願いします。

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-地震が起きたときは-

 尾久さん(事務局)、お世話になっております。こんな形で再会できるとは思っていませんでした。

 小野寺信一さん先に地震とか津波のことを20~30分お話をして、それから原発の話に入っていきたいと思うのですが、3月11日の地震のとき、私は仙台弁護士会の4階におりました。3時から第二東京弁護士会の児玉先生をお呼びして、医療ADRの講演会を開く予定で、病院の関係者を含め150人くらいを予定し、まさにスタートする直前だったのです。激しい揺れが始まって、ともかく長いんですよね。もう終わったかなと思うとまた激しくということで、後で聞いたら東京も相当揺れたらしいですよね。私の友達が東京に出張していて、すっかり関東大震災だと思って直後に奥さんに電話を入れて「俺は大丈夫だ」と言ったら、奥さんに「何言ってるのよ。こっちだよ」と言われて、ああ、そうかと思ったと言っていましたけれども、東京も揺れたのですけれども、仙台の揺れというのは相当ひどかったですね。それでもビルが倒れたとか崩れたということはなくて、私の事務所も本が全部外に出る程度で、けが人もなかったので、かつて経験した宮城沖地震以下かなと思いました。

 しかし、すぐに停電になってしまってテレビを見ることもできないし、外からの情報というのはラジオだけだったんですね。その夜、全く暖房のないところで布団に入ってラジオを聞いていたら、荒浜で200から300の死体が見つかったという話が聞こえてきて、これは一体どういうことが起きたんだろう、もしかしたらとんでもないことが起きたんじゃないかと、だんだん不安になってきたんですね。翌日になったら女川町と連絡が取れないとか、南三陸町は壊滅だとか、石巻はほとんどないとかいう話がどんどん入ってきて、これはとんでもないことが起きたんだなと。それから、気仙沼が火の海だ、大島という私の住んでいるところにも火が移ったらしいというのが聞こえてきました。

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-気仙沼市大島の状況は-

 レジュメの後ろのほうに「祖父の遺言」というのを書いたところなんですけれども、一番後ろに新聞記事が出ています。資料5です。私の生まれたところは、この大島という島なんです。気仙沼湾に浮かぶ島で南北8キロ、周囲が22キロ、人口が3,000くらいの島です。私の実家は、この矢印のところだったんですね。ここには80を過ぎた両親が2人で住んでいたのですが、目の前が海です。次の写真の資料6が私の実家なんです。家の形は残ったのですが1階は完全に水が入ってしまったんです。下が裏から見たところで、松の木の下に見るのが堤防なんです。堤防に出ると(資料5)ナンバー4のような海が見える。ですから堤防と家というのは地続きになっているんです。(資料6)ナンバー3は家の中の様子なんです。こんな状況ですが、津波は大島を三分断する寸前だったようです。

 資料5の地図で見ていただくとおわかりですけれども、田中浜から上がった津波と浦の浜港から上がった津波が中央でぶつかっております。小田ノ浜から上がった津波と浅根漁港からの津波が、もう少しでぶつかる直前だったということなんです。

 この資料5の上の写真は、浦の浜港のフェリーが桟橋と一緒に押し上げられて、陸のほうのリフトの入り口のところに鎮座しているということで、船と船の間に見えるのは高さが4メートルぐらいのコンクリートの桟橋なんですね。ここに船がつないであったので、このコンクリートの桟橋もろとも持っていってしまって今ここにあるという状態です。私も何度か大島に行って、その津波の高さを見たのですが、大体15メーターから20メーター近い津波で、こんなところまで来たのかというびっくりするような高さでした。島の3分断というのは、実は私たちは小さいときから聞いていました。大島が大津波で3つに割れたことがあると。私は、てっきり三陸の大津波のときにそうだったんだろうと思っていたのですが、この記事によれば三陸の大津波のときでも島は3つに分断されなかったと言っていますので、私たちが聞いていた伝説というのは、その前の津波だったんだろうなというふうに今になって思います。

 私の両親は、地震のときは(資料6)ナンバー4の堤防のところに出て堤防にしがみついていたのですが、上のほうに家がある弟の嫁さんが車で降りてきてくれて、足の悪い父親を連れて弟の家まで行ってくれた。母親は足が丈夫なので、裏山から弟の家に上がってて、津波が来るときには2人とも上のほうからそれを見ていたようです。

 (資料6)ナンバー4の写真のコンクリートの桟橋があるのですが、桟橋の向こうがちょっとした半島がありますよね。白い家が見えるのですが、ここを乗り越えてきたと言っていましたね。ここを乗り越えてきて、実はここの真ん中あたりが、完全に家とか林が取れてしまって、弟の家から見ると、今まで見えなかった向こう側の海が見えるようになったんです。それぐらいの高さで迫ってきたということで、私の家がどうして残ったのか、むしろ不思議くらいなのです。おそらく、この屋根瓦が重くて何とか重量で持ったのではないかと思います。

 そんなことで両親の安否もわからない、それから私の弟が気仙沼の市役所に行っているのですが、その日の午前中に今日はこれから議会だというふうに電話でやりとりしたものですから、弟は議会棟にいれば大丈夫だろうと思ったのですが、弟の子供が海岸から1キロくらいの会社に勤めているのですが、その安否が不明で、助かっているというのがわかったのは14日です。屋根の上に逃れ3日目に自衛隊のヘリコプターに救出されたということがわかりました。近いところでは亡くなった人はいなかったのですが、ちょっと離れたところだと私の母の従兄弟が孫と一緒に流されて行方不明とか、私の従兄弟の義理の母が行方不明とか、それから私の依頼者とか顧問会社とか、そういうところはいっぱい犠牲者が出ております。

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-祖父の遺言-

 最後の「祖父の遺言」のところから先にいきますが、実は私の母の生家というのは先ほどの地図で言いますと、私の実家のちょうど気仙沼湾を間に挟んだ向こう岸なんです。

 3キロくらい離れていると思います。母の実家には母の弟が夫婦で住んでいたのですが、津波だということで車で逃げたので、預金通帳とか位牌などを置いたままでした。津波の後、実は浦の浜港で私の祖父の位牌が見つかって、たまたま祖父を知っている人がそれを見つけてくれて、3月21日のお彼岸の日に私の母のところに、届けてもらったのです。これは、そのとき撮った写真なんです。

 (資料6)ナンバー5の写真に写っているのは私なんです。これは私の隣の部落、ここはもう壊滅的にやられて家が全くなくなったところなんですが、そこを歩いている姿なんですが、ちょうど母の実家というのは、この写真の向こう岸にあったんです。ここもほとんど壊滅的、部落が全くなくなったところなんですが、そこから流された位牌がどういう経路かわかりませんが、気仙沼湾をぐるぐる回って大島にたどり着いて、そしてお彼岸の日に私の母の手元に届けられたという、非常に稀な偶然があったんですね。それだけじゃなくて、流された母の一番古いアルバムを弟の嫁がそれを拾ってきて、アルバムを開いていたら、祖父の随筆が濡れた状態で出てきました。

 それが資料7で、昭和50(1975)年に三陸新報という地元の新聞に書いたもので、その題が何と「津波」ということだったんです。そういう点でもびっくりしました。私の祖父はこういうふうに書いているんです。ちょっと字が小さくて申しわけないのですが、「海は我々の生活の場で人類を生かしてくれているが、反面、遠慮会釈なく犠牲を強いている。また従来、襲来した以上の大きな規模の津波は永久に襲来しないと断定する根拠がない」。常に備えあれば憂いなしということを書いていて、何かあの世から執念で蘇って私たちに忠告しに出てきたのではないかと思うようなこともございました。

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-仙台を脱出-

 そんなことで、津波が大変な被害をもたらしたということがだんだんわかってきたんですが、そのうち、実は原発が重大な局面に入ってきました。後で申し上げますが私は昭和50(1975)年に弁護士になったときから福島原発訴訟をやっていたものですから、今問題になっている事態がどれほど重大なことかということはわかっていましたので、12日、震災が始まった次の日、食糧がなくなったものですから修習生が自宅に泊まりにきていたのですが、修習生を連れてその夜に仙台からいったん避難をしました。もしあれが水蒸気爆発みたいなもので格納容器が割れたら、これは仙台だって危ないというふうに判断をして、鳴子の駅の前で一晩車中泊をしたんですね。完全に電気が消えていますので、外灯もないわけです。真っ暗な道路を車で行ったのですが、電気がついているのは消防署とか病院、警察署くらいのもので、それだけに鳴子の駅の前で見た星空が、こんなに星がきれいだったのかと思いました。水素爆発で建屋が壊れただけだしということがわかったので、次の日にいったんは戻りました。

 その後、14日、15日に4号機、5号機の冷却が困難ということになって、これはやっぱりだめだろうということで、家族を説得して15日の夜9時ごろ車で避難を開始し、山形のビジネスホテルに一泊して、次の日どうするかと。飛行機をいろいろ調べたら、山形空港から羽田に出て夜の8時に羽田から那覇に行くという便が空いていたんです。沖縄に行くのかなというふうに思ったのですが、一方、自分の親族の安否が不明というところで私だけ逃げていいのかという気持ちもあったし、それから14日に仙台市内に関西の消防車とか救急車が、ものすごい数が入ってきたんです。本当にもうパレードのように、もういつまで続くんだろうと思うくらいの数がダーッと入ってきて、彼らは12日か13日に関西を発っていたはずなんです。だからそういうことを考えると逃げるというわけにもいかんだろうということで、結論としてはともかく秋田に行こうと。風向きと距離からして秋田なら大丈夫だろうというので、車で鶴岡まで行って、鶴岡の駅に車を乗り捨てまして、羽越線で秋田に出ました。今回の震災で一番被害のなかったのが秋田です。ですから、秋田のホテルでは企業間の懇談会とか何とか学校の終了式なんかやっているわけですよね。こんな日常をやっているんだという感じだったのですが、ともかくホテルに落ちついて、もし原発が収まるのだったら私一人で大島に入ろう、気仙沼に行こうということだったんです。

 仙台は、実は12日からスーパーとかコンビニは食糧がほとんどない状態だったんですね。仙台でそういう状態だったのですが、秋田はまだそこまではひどくなかったんです。それでもコンビニに行くと電池なんかは全くありませんでした。それなら秋田で必要なものを買えるだけ買って気仙沼に行ったほうがいいだろうというふうに思って、タクシーの運転手に相談したら、LPガスはいっぱいあるので、タクシーであれば行って帰ってこれるというので、17日の1日をかけて粉ミルクとかいろいろなものを買い込んで、18日の朝に秋田をスタートして気仙沼に入ったという状態です。家族には、もし何か原発があったら、あなた方の判断で津軽海峡を渡るもよしということで別れていったのですけれども、気仙沼に行って私の弟が気仙沼市役所に勤めているので、弟の車で支援物資を海岸まで運び船に乗せました。

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-気仙沼の状況-

 その船というのは、先ほど写真で見せたフェリーが全滅だったので、たった1艘、小さな船が生き残ったのです。臨時船といって定期の船がなくなった後、遅く帰ってくる人を乗せるための小さな船ですが、それか津波に向かっていってかろうじて助かった唯一の大島の足として動いていたんですね。それに乗せてもらって大島に辿り着きました。そのときの気仙沼の状況というのは本当にすごかったですね。気仙沼市役所のところまでは水が入らなかったので、今まで見慣れた気仙沼の風景なんです。

 市役所を曲がると、もうそこはまさしく、おそらく戦争中空爆された後はこうだったんだろうなという情景でした。世界が一変するという感じでした。家が全部崩れてがれきがどこまでも続き、やたら人が多いんです。普段は車はたくさん通っているのですけれども、歩いている人がなかなかいなかったのですが、歩いている人がいっぱいいて、リュックサックを背負って帽子をかぶってマスクをして、おそらく戦後間もないころの買い出しというのは、こういった風景だったんだろうと思うような風景です。魚市場のあたりは、加工場なんかがいっぱいあるのですが、これはもう壊滅です。建物の支柱は残っているのですけれども、中が全部素通しになっていて、鉄骨だけがむき出しになっている。木造の家屋はもう全部流されてないという状態ですね。それから、大きな油を入れているタンク、これがもう横倒しになったりひっくり返ったりして、その油が気仙沼湾に広がって火が付いて、大島にも飛び火して、亀山という山がかなり焼けたんですね。うちの両親は弟の家に避難したのですが、次の日は火事が迫ってくるというので、大島小学校の避難をさせられたようです。そういう津波プラス火事という状態で、本当に大変だったんです。

 そういうことで、私は18日に秋田から持てるだけの物を持って大島に入りました。大島の対策本部に行って何が今足りないんだと聞いたら、米もないし、一番必要なものはアレルギー性の粉ミルクだというんですね。普通の粉ミルクが飲めない人がいるということで、すぐ秋田の家族に電話を入れて、もう一回買い出しをしてくれというので、アレルギー性の粉ミルクも含めて必要な物を指示して、20日にもう一回タクシーで気仙沼に支援物資を送ってもらいました。

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-支援物資のヒット-

 今回、僕が持っていった支援物資の中で一番ヒットだったのは、小さなLEDのライトですね。ピッと押すと電気がついて、日中お日様に当てておくと光るというやつです。つまり全部停電で、避難所も真っ暗なので、お年寄りがトイレに行くときの足元を照らすものがないんですね。うちにも懐中電灯はあったのですが、せいぜい1個だし、それから懐中電灯も使ってみてわかったのですが、起きたときにどこに置いたかというのを忘れてしまうんですよね。私がそうなので、おやじ、おふくろなんかになると余計そうなんです。ですから、私が持っていったライトを皆さんヒモをつけて、首にぶら下げて、トイレに行くときに付ける。これは秋田のホーマックみたいなところで見つけて、もうあるだけ全部買い占めて持っていったのですが、これが大変好評でした。「これで小野寺さん、あなたは市議会議員に当選する」と言われまして、そういう道もあるかなみたいな(笑)。

 そんなことで20日に家族は秋田から仙台に戻り、私は22日に気仙沼から仙台に戻って、だんだん普通の生活をするようになりました。当初は、扱っている事件が遠のいてしまったという感じですね。ですから、世の中には金持ちもいるし貧乏人もいるし、心がけのいい人もいるし悪い人もいっぱいいあるんですけれども、日常というのは僕はその差を競っている場なのかなというふうに思うんです。しかし、それが根こそぎひっくり返ってしまうと、その差なんていうのはもうどうでもいいと。裁判も、裁判所から当事者の安否確認をしてくれと来るわけです。私の依頼者は2人亡くなりました。結局、安否が不明ということになってしまうと、裁判で争っていることなんていうのは、何だそんなものはという、そんな感じすらします。結局、事件のことが全然頭の中に入ってこないんですね。ですから、普通に事件ができるようになるまで2カ月ぐらいかかりました。私のところは、さっき申し上げましたように近いところでは誰も犠牲者がなくて、家は流されましたけれども、被害としては少ないほうでした。ですから、近親者を亡くされた方などが普通の生活に戻るというのは、よほど長い時間がかかるんだろうなというふうに思いましたね。

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-福島第二原発訴訟とのかかわり-

 さて、それでは少し原発の話に入ろうと思います。私は、実はさっき申し上げましたように27期で昭和48(1973)年に修習生になって50年に弁護士になったのですが、妻が八王子出身で立川高校なものですから、八王子合同事務所にほぼ内定していたんですね。うちの女房は大変喜んで、自分の実家の2階が空いているから、そこから通えばいいじゃないかとか、計画を立てていたようなんですが、突然福島の大学先生という先生が私の住んでいたアパートに訪ねてきまして、それで福島に行くことになってしまったんです。昭和50(1973)年4月に行ったのですが、その年の1月に福島第二原発訴訟というものが起こされておりました。弁護士になったばかりの私と仙台の山田弁護士と埼玉の佐々木弁護士の3人がペーペーとして入りました。上には非常に偉い先生方もいっぱいいたのですが、最高裁に行ったときには我々3人が残ったということで、最高裁の上告理由書は我々27期が書いたということであります。

 この裁判の特徴は、やっている最中にスリーマイル島事故とチェルノブイリ事故があったことです。一審の提訴後4年ぐらいでスリーマイル島事故が起きました。それから、控訴審の途中でチェルノブイリがありました。当然のことながら、我々の言っているとおりのことが起きたじゃないかということで、裁判で主張したわけであります。一審の最終弁論が昭和58(1983)年12月7日にあったのですが、そこで我々弁護団は、そこに書いてありますように4点を主張しました。特に1、2、3については力を込めて弁論をいたしました。地震や水素爆発についても主張はしておったのですが、メインのテーマではありませんでした。おそらく当時は地震についての知見が現在ほど広く行き渡っていなかったせいなんだろうというふうに思います。触れてはいましたけれども、主たる論点ではございませんでした。1、2、3を強調して最終弁論を終えたということであります。

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-事故は盲点で発生する-

 1点は、事故は盲点で発生する。事故原因の多くは起きて初めて認識されるということです。ですから今回、想定外かどうかということを争われておりますけれども、想定外ということは起きないということではないわけですよね。想定した経過では起きなかったということに過ぎない。ですから、事故は盲点で発生するというのは今回も当てはまっていると思います。あってはならないはずの冷却剤喪失事故は高い確率で発生しており、今後も発生するというふうに予言しましたし、いったん大事故が起きた場合、災害は極めて広範囲に及ぶということも今回、実証されたのではないかなと思います。

 スリーマイル島事故について少し話をしてみたいというふうに思うのですが、スリーマイル島事故というのは1979年、昭和54年3月28日にペンシルバニア州で起きた事故です。今問題になっている福島の原発というのは沸騰水型といって、核分裂によってお湯を沸かしてその蒸気でタービンを回すという、非常にシンプルな形なんですが、このスリーマイル島の場合は加圧水型です。核分裂反応によって蒸気を沸かすところまでは一緒なんですが、その熱を熱交換機を通じてもう一回蒸気を沸かし直して、それでタービンを回すという二段構えになっています。

 3月28日にどういうことが起きたのかというと、加圧水型は今申し上げましたように二段構えになっていますので一次系、二次系とあるのですが、一次系の熱を蒸気発生器で二次系のほうにバトンタッチして、そして二次系の熱でタービンを回すということなんですが、この二次系を回しているポンプが止まってしまったんです。そのときには補助ポンプというものが駆動してすぐ二次系を回さなければいけないことになっているのですが、二次系のポンプの吸水管のバルブがしまっていたので補助ポンプが動かない。補助ポンプが動かないとなると主ポンプも動いてないわけですから、二次系の水の循環は止まってしまったわけです。そうすると一次系の熱を除熱することができなくなり、あっという間に一次系の温度と圧力が高まっていく。もちろん、そうなったときのために自動的に制御棒が差し込まれて核分裂反応は終わったのですけれども、ご承知のとおり終わっても熱は出続けるわけです。二次系が動かなくなった、一次系の圧力が高まったときに通常であれば圧力逃し弁から圧力を逃すことになっているんです。今回も一次系の水が蒸気と一緒に出たのですが、実は圧力が下がったときにはバルブがしまって、それ以上逃れないようにしなければならなかったのですが、逃し弁の故障で開いたままになっていたために、一次系の水がどんどん出てしまった。そうすると、ECCSという非常用炉心冷却装置が稼動して、外から水を補給することになるのですが、水が多すぎると圧力の調整がうまくいかないだろうということを心配して、運転員が水の注入を絞ってしまった。結局、水がどんどんなくなる一方ですので、今回の原発と同じように炉心がむき出しになって燃料棒が溶け、いわゆるメルトダウンが起きたという経過だったんです。

 福島の原発は、先ほど申し上げましたように二段構えではなくて、沸騰した蒸気で直接タービンを回すということになっているわけですが、圧力容器の水というのは1人3役くらいを果たすわけですね。1つは炉心の温度を下げるという役割と、みずから蒸気になってタービンを回すという役割と、それから中性子のスピードをほどよく減速して、間断なく核分裂反応が起きるような役割、減速材というのはそういう意味なんですが、真水がそういう役割を果たしているということなんです。

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-事故は同時多発におき、複雑に発展拡大する-

 さて、裁判が起きて4年後にこのスリーマイル島事故が発生しまして、私たちは大変衝撃を受けて、アメリカ大統領の調査報告書を入手して、日本の科学者のディスカッションなども参考にして、早速準備書面を書いていきました。レジュメの3番目に「教訓」ということが書いてあるのですが、このことと今回の福島原発と少し関連づけてお話をしてみたいと思います。スリーマイル島事故の教訓の第一は、事故は同時多発的に起き、複雑に発展拡大するということです。日本の原発の安全評価というのは、代表的な事故を想定して、それに関連する安全系の機器が1つ壊れた場合、それでも大丈夫なのか、それでも安全性が保証されるのかという角度で安全評価をしているのです。

 単一故障指針というのですけれども、しかしスリーマイル島の場合は極めて複雑な経過で発展し、しかも同時に発生してしまうという、1足す1は2じゃないんです。1足す1は3とか4になってしまう。しかも、今まで誰も考えなかったようなところから事故が起きるということがわかったわけです。先ほど私は、1番の発端は二次系の主ポンプが動かなくなったことだというふうに申し上げたのですが、これだってもとは何かと言えば復水浄化器というところの配管が詰まって、その配管の詰まりを空気の力によってかき回して、その配管の汚れを取ろうとしたときのミスによって主ポンプが動かなくなったということで、もともとのきっかけ、源流の一滴は実に些細なことなんです。

 ですから、柳田邦男さんは事故の発火点は辺縁にある、周囲にあるということを言っておりますけれども、本当にそんなことからどんどんドミノ倒しのように発展していく。日本の場合は、大きな配管がドーンと切れた場合に、それでも大丈夫かという角度で評価していったのです。福島原発の場合も、外部電源が全部喪失して、非常用ディーゼル発電機が機能停止という2つのことが同時に起きてしまった。控訴審の検証で第二原発ですけれども、私たちも中に入って発電機を見ました。この部屋の2倍ぐらい大きいディーゼルエンジンで、それが何基かあって、もし電源が喪失したときには、すかさずこれが起動する。しかも複数あるので、どれかが必ず機能するので、心配する必要がないという建前になっていたのですが、これが第一原発の場合にはだめだった。

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-人為ミス-

 それから2番目は人為ミスです。日本の安全評価の場合には、普通の能力を持った運転員が積極的なミスをして、そして事故を拡大するということは念頭にないんです。第一原発の安全審査にかかわった東大の都甲教授、第二原発の裁判のときに国側の証人として出てきた切り札の人なんですが、彼はこんな例えを言っているのです。飛行機に例えれば、万一のときに気球を2つぐらい備え、それが働かないときの用心にパラシュートを2つぐらい備え、さらに住民の住んでいるところの上空に網を張り巡らせているようなものだと。だから、操縦士にミスがあってもどうってことはないと。こういった考え方だったんですね。

 しかし、スリーマイル島の場合は、先ほど私は二次系の補助ポンプのバルブが締まっていた、だから二次系が動かなくなったということを申し上げましたけれども、運転員はそのバルブが締まっていたということに気がつきませんでした。それから、加圧器の逃し弁が開きっ放しになって、一次冷却水がどんどん外に出ているということも運転員は気がつきませんでした。それから、本当はもう注入し続けなければいけないECCSの水を、圧力のコントロールができなくなるのではないかと心配して絞ってしまったというミス、こういった人為ミスがスリーマイル島の場合はあったんです。

 柳田邦男さんの『恐怖の2時間』という本を読むと、最初の30秒でアラームが85個、警報ランプが137個、同時に鳴ったというんです。今回もおそらく外部電源が消えてしまったので、真っ暗闇で中央制御室に行って懐中電灯か何かでいろいろ見てやっているわけですからね。それが1つの炉だけならともなく、複数の炉で同時に発生しているわけで、そこで冷静な判断を要求するというのは無理だろうと思うんです。

 スリーマイル島の場合は、当日の当直員が4人で、海軍出身で原子力潜水艦の経験者なんです。年齢は20代後半から35歳、ハイスクール出身で大学を出てないということなんですが、福島の原発も先日の新聞によると第一原発で6,778人いたのだけれども、東電の職員は1,087人に過ぎないと。5,691人は地元協力企業の作業員。とびきり原発に詳しい専門家が常時そこにいるというわけでも何でもないんですね。その人たちは、ルーチンのことはこなせると思うのですが、こんなふうに外部電源が喪失し、ディーゼルエンジンも動かない、さあそれで海水を注入するかしないかとか、もう既に放射能が出ているかもしれないなんていうときに、どういう判断を下すのか。ミスを犯さないほうがおかしいんじゃないかと思うのですが、これが日本の安全審査の中にはほとんど反映されていません。

 今回も報道されているところでは、幾つかもう既に挙げられています。津波が来るまでに原子炉を満水にしておくべきをしなかったとか、11日の夜の時点で圧力容器内の蒸気を出す、弁として圧力を下げて外から水が入れるような状態にしておくべきなのにしなかった。12日にやったために、炉の圧力がもう上がり過ぎて、外からの注入ができなくなってしまったということも指摘されています。しかし、5月19日の新聞だとベントができなかったというのはミスではなくて、設備自体が機能しなかった可能性があるということだと、これはもっと重大な問題になるんですよね。それから、1号機で緊急炉心冷却用の非常用復水器からの水の注入を、どうやら手動でストップした可能性もあると。そんなことで、まだこれから明らかになるんでしょうけれども、おそらくは慌ててやってはいけないことをやってしまったとか、やるべきことをしなかったということがこれからたくさん出てくるんだろうというふうに思っております。

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-マインドセット-

 3番目は、マインドセットということです。アメリカの調査報告書、これはケメニー報告というのですけれども、その中に「我々は一つの言葉が繰り返し使用されたのを覚えている。運転員がミスを起こすことはないというマインドセットである」という部分が出てくる。このマインドセットというのは、僕は原発訴訟を通じて教わった言葉なんですけれども、「思い込み」という意味です。福島原発の場合も大津波なんか来るはずがない、来てもせいぜい5.7メートルぐらいだろうというふうな思い込み、外部電源が喪失するはずはない、そのときは必ず非常用ディーゼルエンジンが動くんだと、これも思い込みですよね。そのために第二原発では非常用ディーゼルエンジンは陸側の原子炉建屋の中にあったのですけれども、第一原発は海側のタービン建屋に置いたままにしてしまった。それから、非常用ディーゼルエンジンも海の水によって冷却して動かすわけですが、組み上げポンプが第一原発の場合には建屋で保護されず、ほぼむき出しの状態になっていた。危機感がないものですから、放ったらかしの状態になったということです。

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-多重防護は信頼できない-

 4番目は、多重防護が信頼できないということがスリーマイル島事故で明らかになりました。飛行機の例を挙げましたけれども、災害発生ということはないんだ、その前の段階で防護するんだという建前ですので、結局、災害発生というのはないんであれば、防災などやる必要もないということになってしまいますよね。今日のレジュメの資料1をちょっと見てくださいますか。結局、こういう自体が起きるというふうに具体的に考えて対応をとってなかったわけです。左側の段の2段目に南相馬市、今は計画的避難区域です。原発事故を想定した具体的な防災計画はなかった、防災訓練は地震と水害だけだったということを言っています。それから、次の段で避難の基準となる長期間の被爆放射線量、学校利用の可否を判断する放射線量、避難住民の一時帰宅での許容範囲や時間、農作物の出荷や作付けなど、広範囲で基準を次々に求められ、場当たり的に打ち出すことになった。つまり起きないということですから、計画を立てる必要もないということになってしまうのです。

 今回の福島原発の場合も非常用のディーゼルエンジンがすべて使えない場合はどうなんだとか、炉心の水がなくなって燃料棒がむき出しになった場合、どう対応するのかとか、水素爆発の恐れが出たときにどうするのかということは全然考えてなかったわけですので、極めて場当たり的に、しかも時間の勝負の中で同時並行にきつい作業を進めていかなければいけないものですから、ミスも出てくるということになるわけです。

 スリーマイル島というのは、今申し上げましたような教訓を含んでいたわけです。私たちは、それを裁判の中で主張しましたけれども、国は運転員のミスが事故原因なんだ、ああいうミスは日本では起きようがないというふうに矮小化しました。だから、私たちはその態度を見て、先ほど申し上げましたように事故は盲点で発展する、国がそういう態度であればあってはならないはずの冷却材喪失事故は今後も発生すると。その場合、災害は極めて広範囲に及ぶということを申し上げたということになるわけです。

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-安全性は実証されているか-

 私たちが裁判の中で最も力を入れて主張したのは、安全性は実証されているのかという点です。例えて言えば、こういうことだと思うのです。もし10年に一遍ぐらい世界中を飛んでいる飛行機が、何の原因か知らないけれども一斉に落ちてしまうという現象がもしあるとすれば、それが10年か15年に一遍でもあったとしても、はたして飛行機というのは普通の運送手段として、あるいは産業としてなり立っただろうかというふうに思うんです。飛行機事故、自動車事故、船舶事故、列車事故は今でも続いています。にもかかわらず我々が列車や飛行機を認めているのは、結局のところ最悪の場合の被害規模というのは大体限定されて、発生頻度も今年は去年に比べて3倍になったとかいうことはない。大体頻度が一定し、御巣鷹山のような事故もありますけれども、飛行機に乗っている人たちと、あるいは墜落したところの人が亡くなるという程度です。1つの都市が全滅するとか、1つの国家が滅亡するとか、そういうことは飛行機事故ではあり得ない。そうすると、我々はその飛行機に乗るのか乗らないのか、車で行くのか行かないのかというリスク判断ができるわけです。

 しかし、原発に関しては、最悪の事故の規模というものを人類は誰も知らないわけなんです。もし1つの炉で致命的な事故が起きて、放射能があたりにまき散らされたとした場合、作業員が作業できなくなりますよね。そうすると、これは第二原発も一緒に作業ができなくなる。つまり、今のような冷却をしていられなくなってしまうわけです。そうすると、第一原発と第二原発で10個の炉があって、この10個の炉が仮に冷却困難ということになった場合、一体どういう事態が発生するのか。日本が壊滅するだけじゃなくて放射能は風に乗ってアメリカにも行くでしょうし、私は本当に逃げるときに人類の滅亡のカウントダウンではないか、これは秋田に逃げようが北海道に逃げようが、どっちも同じではないか、自分一人が死ぬならともかく、日本の国が滅亡するのを見るということになるのではないかという、そういった危機感すら持ちました。これから第一原発がどうなるかわかりませんけれども、汚染水がずっと垂れ流しのままであれば、空気を汚すかわりに海を汚して、日本の太平洋はもうだめになります。4月4日に鶴岡に車を取りに行ったんですけれども、当時もまだやっぱりガソリンがなくて、鶴岡に一緒に原発訴訟をやった脇山弁護士のところに行ったらガソリンを満タンに入れてくれたのですが、帰りに先生から太平洋の魚はもう食えないだろうから日本海の魚を持っていってくれというので、魚をどっさりもらい、美味しい日本酒ももらって帰ったのですが、冗談ではなくなってきたんです。かなり広範囲に太平洋が汚染されている可能性があって、そういう点でも致命的なことになりつつあるわけなんです。

 私たちは最終弁論で、ここに書いたように「軽水炉発電技術は極めて過酷な条件と多くの未知要因を持った未成熟な技術である」と言いました。軽水というのは普通の水なんですね。重水ではないという意味なんです。「指針を手直しないし新設ということは未成熟な証拠だと。壮大な実験をしていることになる」ということを最終弁論で言いました。この「指針の手直しないし新設」というのは、地震の知見が明らかになるに従ってたびたび行われてくることになりました。206年にも新しい耐震指針ができました。しかし、3月11日の東日本大震災では福島第一原発にしろ、東海第二にしろ、この指針の想定を上回った揺れが認められましたし、女川では本震だけではなくて4月7日の余震でも想定を上回る揺れがあったわけです。こういったときに、本当に多重防護の機能が発揮できるのかということです。むしろ素人の直感のほうが本質を言い当てているのではないかということで、資料2に、これは福島第二原発裁判が起こる数年前の公聴会で60人の人が証言しているのですが、その中で大和田さんという人の証言、赤線のところだけ読みます。「東電の宣伝パンフレットには原子炉には何重にも安全装置が施されているのが強調されています。しかし、よく言われるように大事なことは安全装置があるかないかではなくて、そのような安全装置が事故のような劣悪な条件のもとでも本当に性能を発揮するという保証がどのくらいあるのかということです」。まさに本質を突いているわけですね。

 次のページを見てください。赤のところですが、「事故時のような悪い条件でも必要な機器が作動するという保証は何でしょうか。また、そのような技術的に起こると考える重大事故が発生したとき、農作物にどのような被害が出るのか。東電が提出している申請書添付書類には解析されていない。それを求める。そのような影響の評価もないままでは判断のしようがない。重大な事故のとき、どの範囲のどの程度の汚染が生じ、農作物はどのくらいの期間にわたって社会的な制約を受けるのか。具体的な分析結果を示してもらいたい」と言っていますね。その次、「事故解析は多くの仮定、想定で行われているように考えられるが、一般事故というものは予想できないような原因や経過によって起こることが少なくない。事故解析で計算されている放射能の量は、現実に起こった場合のいかなる場合にも、その値を上回ることがないということがどのように確認できるのか。これは現実に起こってみなければわからないものであって」云々と書いてあるのですね。まさに、その本質を突いているわけなんですよね。

 さて、今後の見通しと取り組みのところに少し入っていきたいと思います。ここで少しオンブズマンの話をさせていただきたいと思うのですが、私は東電なり政府は、地震対策と津波対策に矮小化した対策をとって乗り切ろうとしているというふうに思っております。これだけ重大な事故が起きても、おそらくその教訓を正面から受け止めて国民的な議論をするということは避けようとするだろうと思います。原発依存型の経済成長と繁栄を求め続けるのか、そこから脱却するのかという国民的な議論が、おそらくされないまま安全神話が復活するだろうというふうに思っております。なぜならば、スリーマイル島のときがそうだったんですね。さっき申し上げましたように、運転員のミスだということで乗り切りましたし、チェルノブイリのときには炉が違うと。確かにチェルノブイリの場合には減速材が真水ではなくて黒鉛だったんです。それから格納容器というものはないんです。裁判のときにも国がそういうふうに主張して、裁判所も結局はそれを認めたわけです。今回は、地震は確かに見通しを誤ったと。しかし、これこれをやれば大丈夫だと、津波対策については防潮堤をつくれば大丈夫だとか、非常用のエンジンを高台に上げれば大丈夫だという形で絆創膏を貼って乗り切ろうとしているんだろうと思うんです。結局、それだけ安全神話というものが強固だということなんですね。

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-仙台オンブズマンの話-

 ここで少し回り道なんですが、オンブズマンの話をさせていただきたいと思います。仙台市民オンブズマンは平成5(1993)年にできました。覚えている方がおられるかどうかはわかりませんが、仙台市長と宮城県知事が同じ年に捕まってしまうという、例のゼネコン汚職があった。その年に発足をしました。その2年後に食糧費による官官接待によるものに私たちはぶつかりまして、それが契機になってオンブズマン活動があちこちに広がっていった。全国的な広がりも見せて全国市民オンブズマン連絡会議というものができて、毎年集まっていろいろなことをやっているわけですね。

 最初は食糧費による官官接待だったのですが、そのうちカラ出張をやり、それから談合の問題をやり、むだな公共事業をやり、議会の政務調査費などをやり、警察の犯罪捜査報償費を追求するとか、いろんな形で広がっていったのですが、私はやっていく中でどうしても不思議で仕方がなかったことが2つあるんです。それはどういうことかと言うと、官官接待のときには、これはもう絶対空飲み食いだというふうに確信しましたので、担当者を住民訴訟で訴えたわけです。当時は今の住民訴訟と違って、直接担当者を被告にできたんですね。今は知事を訴えて、知事に請求しろという間接的な請求形態なのですが、当時は直接担当者を被告にして訴えられたので、現場の職員を被告にしたんですね。

 その裁判がある程度進んだときに、宮城県に浅野知事という知事が誕生して、彼はその問題を正面から受け止めて内部調査をして、実は裁判をやっている対象の飲み食いも含めて不正がありました、ごめんなさいということで謝ってしまったんですね。それを受けて住民訴訟の被告がどんな答弁を出してくるのかなということで興味津々で待っていたのです。そうしたら、宮城県庁には古くから予算を使い切らなければいけない、使い切るためにはそういった操作をしてお金をホテルに投げておくという悪しき慣習があった、一線の職員は、その悪しき慣習に逆らうことは困難である。従って、個人の責任はないという答弁を出してきたんですね。私はそれを見て、ふざけるなというふうには思いました。だけども、よくよく考えると、案外そうかもしれないと。町内会の会費を預かって猫ばばする職員っているだろうか。いないんじゃないか。にもかかわらず桁が3つも4つも上の金額を、どうして集団になると平気でやってしまうのか。慣習に逆らえないというのは本当のことなんじゃないか、裁判所ではもちろんそういう反論は通りませんけれども、そうなんじゃないかと。じゃあ、その悪しき慣習というのは一体何だろうというふうに考えたんです。

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-空出張の追求-

 官官接待が宮城県で火を吹いたのは平成7(1995)年2月なんです。その後、僕らはカラ出張に入っていった。それで、平成7(1995)年2月の石巻土木事務所のカラ出張を突き止めて、カラ出張を追及していったんですね。本庁の財政課で官官接待で我々に追及されて、連日、河北新報に書きたてられているのに、同じ県庁の職員である土木事務所の職員がどうしてカラ出張ができるんだろうか。本庁と土木事務所という違い、それから食糧費と官官接待と交通費の不正という違いはあるのですけれども、同じ組織の不正が毎日新聞に書きたてられているのに、どんな神経で空出張をやれたんだろうかということが不思議だったんですね。

 それから、平成7年の秋から暮れにかけて、北海道、秋田でカラ出張が大問題になるんです。しかし、福島の職員はその当時、せっせとカラ出張をやっていたのですね。それは後の内部調査で明らかになってくる。そうすると、他人のふり見て我がふり直せとか、他山の石とか、そういうのはもう全く通用しない。ともかくもう火が燃えてきて、軒先が焦げるまで動かない。あるいは頭の上から水をかけられるまで自分でやめようとしない。これは一体何なんだろうという深刻な疑問にとりつかれました。

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-公共事業のむだ-

 もう一つは、公共事業なんです。2000年に最高裁で上告が棄却されましたけれども、私たちは仙台の地下鉄東西線の差し止め訴訟に5年くらい必死になってとりくみました。各地の地下鉄に全部調査に行って調べてきましたが、結局、どの地下鉄も最初の予測が甘くて、結局乗る人は予測の半分とか、建設費だけはどんどん上がっていって、ダブルパンチで大変な目に遭っているんですね。どこの地下鉄もほとんど例外なくです。仙台も、実は東西線の前に南北線というのがあって、これが半分くらいしか乗らないために一般財政からもう1千億円以上のお金が既につぎ込まれている。それを知りつつ、東西線で過剰な予測のもとに地下鉄工事が進められようとしている。なんでこんなバカバカしいことがずっと続くんだろうと思いました。

 その中で気がついたのは、予想が狂っても誰も責任を取らなくて済むという単純な事実です。責任を取るべき人は工事が終了した時は辞めてしまっていていないんです。責任を取らなくていい。責任を取らなくていいから原因を究明する必要もない、原因を究明しないから同じことが繰り返させる、この無責任循環体制ですね。結局、開業初日の結果を見るまでは、地下鉄東西線であれば11万9,000人が乗るという神話を皆さんが信じ続けているわけですよ。カラ出張とか官官接待で言えば、予算の使い残しを避けるためには不正行為もいとわないという神話も、頭から水をかけられるまではそれを手放さないようにしようとする。

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-「神話はなぜ生まれる?」-

 じゃ、この神話というのは一体何なんだろうというふうに考えました。これは私の考えなんですが、私は3つあるというふうに思っているんです。1つは神話が破られないだろうという安心感があるんじゃないか。よもや財政課の食糧費を市民団体が情報公開を使って追及して暴き出すだろうということはないだろうという安心感、それからおかしいと思っても自分から手を挙げた場合に仲間はずれにされるという恐怖感。よしんば追及されて明るみに出ても自分一人がやっているわけじゃなくて、みんながやっているのだから、自分一人が責任を取らせることはないという安心感。安心感と孤立への恐怖感、そして既得権。この3つなのではないかというふうに思うんです。

 この安心感なり孤立への恐れ、それから打算、既得権というものは、いつ始まったんだろうかというふうに考えてみたんです。いろいろ調べてみるとやっぱり戦前の日本の組織、とりわけ日本の陸軍とか海軍の組織の中にそれを見つけることができる。そうすると、これはずいぶん根深いものがあるのではないかということがわかってくるわけです。

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-失敗から学ばない-

 例えば神話の一つに、ここに挙げましたように失敗から学ばないというものがあるんです。第二次世界大戦の前にソ連とぶつかったノモンハン事件という戦争がありましたね。あれで日本の帝国陸軍は、これからの戦争は戦車や銃砲だ、歩兵ではないということを学んだはずなんですが、しかしそこから学んだものを何も生かさないまま第二次世界大戦に突入していきました。物流の不足を精神主義でカバーするという神話にとりつかれたまま第二次世界大戦に入っていったんです。アメリカ軍は、1942年の末ごろまでにガダルカナルの経験で、日本軍を攻撃するときには何が効果的で何がよろしくないかということを、海兵隊の過ちから十分学んで次の作戦に生かしていったわけですが、日本は、正面からの一斉攻撃という日露戦争以来の神話をずっと守り続けてきて、あんな結果になった。

 スリーマイル島事故も、さっき申し上げましたように原因を人為ミスに矮小化し、チェルノブイリの事故も炉が違うのだから日本では起こらないと矮小化する。日本特有の事情で格納の容器が壊れることがあるのではないかというふうには思わないんですね。交通事故だって飛行機の事故だって、全く同じ事故というのはないですよね。どこか違うわけです。つまり正面から教訓をくみ取ろうとしない。原発もそうですね。近いところでは2007年7月に新潟沖の中越沖地震というのがありました。これはマグニチュード6.8で原発と震源地は10キロしか離れていない。柏崎の刈羽原発も震度7の強い揺れに襲われました。震度7というと今回の仙台の揺れに近い揺れです。3号機で変圧器が火災した。しかし、変圧器の火災なんていうことも全く考えてなかったので化学消火剤もないし、化学消防車もない。しようがないから柏崎市の消防署に電話したけれども、消防車が渋滞でなかなか来れなくて消火に2時間かかった。もし変圧器がこのまま火事になってしまえば、あれは外部電源の窓口ですから、外部電源喪失ということが起き、しかも陥没でかなりやられていましたので、ディーゼルエンジンが本当に動くかということもわからなかったんですね。寸前のところで外部電源の一部が生きていて大事故には発展しなかったのです。火事で外部電源が喪失するということであれば、水で喪失することだってあるんじゃないかというふうには考えないんですね。

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-否定情報の排除-

 2番目は否定情報の排除ということだと思います。食糧費の不正使用のときも、あるいはカラ出張のときもそうなんですが、疑問を持っている人というのは中にはいるんだろうと思うんですが、やめようじゃないか、こんなこといつまでもやっていられないからやめようじゃないか、本庁ではああいうことで追及されているのだから、石巻の土木事務所ではもう今年からカラ出張を止めようじゃないかということがなかなか言い出せないんですね。警察のような組織の場合は、そういうことを言い出すだけじゃなくて、不正行為の指示を拒否しただけでもう左遷させられるという締め付けを受けます。本来、組織というのはその環境に適応するためには主体的に変化しなければいけないので、その中に不均衡状態をあえてつくっておく必要がある。例えば安全神話に疑問を持つような社員をあえて置いて、そいつの言うことにトップは常に耳を傾けるといった組織でなければ主体的な変革はできないのですけれども、日本の場合は組織の中にそういうものを置くということを徹底的に嫌う、それだけではなくて組織の外についてもそれを攻撃する。

 原発訴訟でお世話になった立命館大学の安斎育郎先生がこのところ週刊誌の中で、安斎番という監視人が自分のそばについていたとふりかえっています。彼は、東大の放射線医学の一期生で非常に優秀な人だったのですが、結局原発に反対したために助手以上になれなくて立命館大学に行ったのですが、東大の助手時代、東電から送り込まれてくる社員が彼の監視人だったということを週刊誌で述べていました。外部の人間を徹底的にパージして、そしてアウトサイダーのノイズとして神話を傷つけまいとするということなんですね。否定情報を排除するということは、裏を返せば情報の非公開にもつながるわけです。情報を公開すれば外部の批判を招くわけですから、外部の批判を招かないようにするためには情報を非公開にするということになるんです。そうすると、後で貴重な情報があったということに気がついても、もう事故が起きてしまった後はどうしようもないんです。

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-「想定外」とは何か-

 今回、2つ3つ貴重な情報を持ってきましたので、資料3を見ていただきたいと思います。これは郷土史研究家が過去にあった巨大津波をずっと調べていて、大津波が170年から180年ごとに起きる、巨大津波が仙台平野を襲ったということで平成7年に本を書いています。彼は、仙台市や宮城県にも仙台平野で津波が起きると。津波と言えば三陸沿岸ということだったのですが、この人は貞観津波や江戸時代の津波の痕跡、言い伝えなどを丹念に拾って、仙台平野でもあるんだということを本に出しました。しかし、河北新報の書評ですとユニークな説を展開していると言っているんですね。この本を買って読みましたけれども、全くこの人の言ったとおりのところに地震が起きている。ですから、誰も言っていないというなら想定外ですけれども、こういうふうに言っている人がいるんです。しかし、取り上げなかったんですね

 資料4は平成17(2005)年2月23日に、今、地震で有名な神戸大学の石橋先生が衆議院の予算委員会で述べているところなんです。これは非常に重要なことを述べているので後で読んでいただきたいと思うのですが、簡単に言えば今までの日本は地震の静穏期だったと。敗戦後の目覚ましい復興というのは、たまたま静穏期に巡り合わせただけなんだ。現在、日本列島はほぼ全域で大地震の活動期に入っている。活動期に入ったときにどうなんだということで、3ページ、4ページあたりでいろいろそのことを書いています。特に、5ページに原子力発電所のことが書いてあります。日本の場合は53件の原子炉が今ある。地震というのは、原子力発電所にとって一番恐ろしい外的要因だと。下から6行目ぐらいに、地震の場合は複数の要因の故障といって、いろいろなところで振動でやられるわけですから、それらが複合して多重防護システムが働かなくなるとか、安全装置が働かなくなるとかで、それが最悪の場合にはシビアアクシデント、過酷事故という、炉心溶融とか核暴走ということにつながりかねないと、今の福島原発を予言したようなことを言っています。

 6ページでは、浜岡原発が大事故を起こした場合どうなるかということで、新幹線の脱線、転覆、建物の崩壊、そこに追い打ちをかけるように放射能が降ってくるとなると、もう本当にとんでもないことになるのだということを書いていて、最後のほうには首都の喪失、国土の喪失、日本の衰亡というところまで言っているんですね。

 ちょっと話がずれますが、ぜひ皆さんにお伝えしておきたいのは食料の備蓄なんです。仙台は、11日の震災の次の日、店頭から食料が全部消えました。仙台は100万都市ですが、仙台のあの程度の規模でも結局、輸送ルートが完全に動いて初めて我々が餓死しないで暮らしているのですね。車が動かなくなる、船が動かなくなるということになってしまうと、お店のある食料と家にある食材だけだと、もう2~3日くらいしか持たないんじゃないかというふうに思うんです。仮に東京だと外からの輸送ルートが壊滅してしまうと、これだけの規模の人を養っていく食料、水というのは何日ぐらいあるんでしょうか。おそらく1週間も持たないんじゃないかというふうに思うんです。原発の事故になれば、なおのこと救援ができなくなるし、外国からの救援もほとんど不可能になってしまいます。最低1週間分の水、携帯用のコンロ、ご飯、缶詰など、それから明かり、山に行くときの頭にかけるもの、これはとても役に立ちました。普段は首にぶらさげておいて夜になると上げてかける。ろうそくも。私が18日に大島に行ったときは、大きな太いろうそくを立ててみんなで食事をしていましたけれども、どこから持ってきたんだと言ったらお寺からもらってきたと。1週間くらいは最低生き延びられるくらいの食料や水は備えておかないと、餓死するという危険性もあるんじゃないかと。

 そういうことで、既にそういう本質を突いた意見はあるにはあったんです。しかし、神話に毒されている我々が、それをアウトサイダーのノイズとして真剣に考えてこなかった、ということなんだろうというふうに思うんです。

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-危機に対応できるリーダーの欠如-

 それから3番目が危機に対応できるリーダーの欠如、それから情報の非公開ということがあると思います。さっき言ったように、内部に不均衡状態をつくらないわけですから、神話を否定するアウトサイダーとの論争に勝つという厳しさを体験しないでトップになってしまう。あるいは失敗すれば責任を取らされるという厳しさも体験しないでトップになってしまう。太平洋戦争のときも同じです。高木さんという人の『太平洋海戦史』という本の中にこう書いてあるんですね。「彼らは」というのは陸軍、海軍のトップです。大将とか中将ですね。上級者になるに従い反駁する人もなく、批判する人もなく、批判を受ける機会もなく、指揮上のご神体となり、権威の偶像となって温室のうちに保護された。僕は、東電のトップ、とりわけ経産省から天下ってきた役員もそうだったのではないかというふうに思うんです。

 先だって、仙台で開かれた日本科学者会議の講演会で福島の共産党の県会議員の方が言っていたのですが、彼らは地元の住民団体と一緒になって何度も津波の危険性について、地元の東電の人たちに要請書を出していたらしいんです。それを私どもも見せてもらいました。今回のようなシナリオのところまでは言っていないのですが、彼らが一番恐れたのは津波のときの引き波によって冷却水を確保できなくなってしまうのではないか。それによって冷却不能が起きるのではないかということを、とても心配して要請書を出していました。たまたまその県会議員が避難先で東電の副社長と会って、俺たちはこんなことを出していたんだと。なんであなた方は真剣に取り上げなかったんだと言ったら、こういうのを見たこともないというふうに言ってたというんです。僕は、見たこともないというのはあり得るんだろうというふうに思うんです。

 その話を聞いて過去のことを思い出したのですが、私たちは三菱マテリアルが経営していた宮城県北部の細倉鉱山の元労働者のじん肺訴訟を何年かやって、和解で解決したのですけれども、終盤で裁判所から和解案が出されたのですが、既にあの段階では各地のじん肺訴訟をずっと勝ちまくって、一定の解決レベルが大体もう出ていたのですのね。その解決レベルからすると、裁判所の和解案というのは会社にとっても悪くはない。もし判決になれば、弁護士費用とか損害金が加算されるので相当多額になることがわかっているにもかかわらず、三菱マテリアルの代理人はその和解案を拒否してきたのです。私たちは、その前に三菱マテリアルの株を買っていた仙台市民オンブズマンのメンバーに頼んで取締役会の議事録の開示請求の訴訟を起こすと同時に、39名の取締役個人の自宅にオンブズマンの個人から内容証明を出したのです。ただいま裁判所でこういう和解が出されていると。あなたが知っているのかと。もし仮にその和解案を拒否して、裁判所が判決を出して、その判決を確定したら、その差額の分について株主代表訴訟を起こすからそのつもりでいてくれという内容証明を出してもらったのです。それが効いたのかどうかわかりませんけれども、和解が成立しました。

 その中でわかったことは、じん肺が起きて裁判になっているという過去の不始末に関することは担当役員と弁護士の問題であって、取締役会に一々上がってこないんですね。取締役会の議事録を見ると、三菱マテリアルの今後の営業政策はこうだとかああだとか、そういうことはいっぱい載っているのですが、じん肺訴訟で裁判所から和解案が出されたけれども、のむべきかのまざるべきかということは載っていない。三菱マテリアルにしてみればはっきり言ってどうだっていいことなんですね。しかし、裁判の中では、なぜじん肺が起きたのか、どうすればじん肺が防げるかという非常に貴重なことがいっぱい展開されているのですが、それがちっとも取締役に上がってこないんです。労務担当、あるいは弁護士の問題に格下げされているのです。

 ですから、原発も同じなんです。トップはぽうっとしている。だから、そういうトップですからリアルな判断ができなくて、こういう危機に遭遇すると事実と願望を混同して願望に引きずられた手を打つから次々に後手に回ってしまう。結局、部下が迎合してトップからリアルな判断を奪い、トップも部下もそのことに気付かないという現象が大企業とか官僚の中にある。中間には優秀な人がいても、上に行くほどダメになるという現象は、そういうことなのではないか。そうすると結局は、各人それぞれ自分にとって目の前のリスクを回避するということを優先するものですから、根本的な改善策が出せない。それが次の組織的計画的遂行の不能というところにつながるわけです。

 第二次世界大戦のときも大本営というのがありましたよね。しかし、いろいろな本を読むと結局海軍は海軍、陸軍は陸軍で自分たちが組織を守ろうとして、その間の調整を大本営が組織的計画的に行えない、人的な調整でお茶を濁すということで終始している。例えば追い詰められていった沖縄戦なども、物の本によると米軍の本土上陸を引き延ばすための持久戦でいくのか、あるいは航空決戦を挑むのかというのは最後の最後まで決まらないまま米軍が上陸してしまって、ああいっためちゃめちゃな状態になってしまった。じゃあ、何が方針を最終的に決定するのかと言えば、空気だというんです。例えば、ビルマのインパール作戦という大失敗した作戦なんかは、牟田口中将という方が必勝の信念を披露して、補佐すべき幕僚は何を言っても無理だという空気、これによって開始されたと。最初の段階でグランドデザインとか原理原則を相互に確認して、これで行こうというようなことがないまま進んでしまう。

 福島第一原発も同じです。まず東電がありますよね。それから民主党政権がありますね。経産省のもとには原子力安全・保安院があって、文科省の下のは原子力開発機構がある。内閣府の下には原子力委員会と原子力安全委員会がある。東電もその本部と吉田所長率いる現場がある。例えば、注水の判断は誰がするのか、誰の責任なのか。注水が失敗したのは誰の責任なのかということを、組織的計画的にあらかじめ決めておかない。スピーディーという百億単位の予測装置の結果を情報公開するのか、しないのかの決定者をあらかじめ決めてない。つまり組織的原則的な合意があらかじめなされてない。

 ですから、注水についても、結局政府の空気を読んで東電のトップは中止の判断をしたけれども、現場はそれに従わなかった。今になって総理大臣のほうはそれでいいんだということなんですが、班目さんという安全審査委員会の委員長は、それを聞いて、私は一体何だったのかと。まさにそのとおりで、なんであなたが注水の判断をするのかということを私は聞きたくなるわけです。あなたが余計なことを言ったからどうだこうだという以前に、班目さんが決めるのか吉田所長が決めるのか、政府が決めるのかということを、なんであらかじめ決めておかないんだというふうに言いたいわけです。結局、こういった状態になると責任がまさに不明確であって、それがお互いにとって都合がいいんではないかというふうにすら思うんです。しかし、それが一番まずいのは、誰のせいでこうなったのかということが決まらないものですから、教訓として何も残らないんです。さっき私が言った公共事業と全く同じ状態になっていくわけです。

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-失敗からどれだけ深く学ぶか-

 少しまとめてみたいのですけれども、失敗からどれだけ深く学ぶのかということが次の失敗を避けるための唯一の手段だということであれば、深く学んだ結果、原発を全部やめるんだという判断だってあり得るわけです。しかし、我々の中に神話が根強くあるものですから、なかなか神話を突き崩して学習を進めるというのは大変だろうというふうに思います。これで収束すれば東電なり電力会社は、ありとあらゆる手段を使って神話の復活をするであろうし、おそらく津波と電源喪失に限定した対策で乗り切ろうとすると思うんですね。東電がこれからどこまで情報公開を出すのか、マスコミがどこまでそれを追及するのか、各地の原発がどうだったのかという、そういったことをどこまで表に出せるのかということが、これからつくるであろう政府の安全指針に反映するし、地元自治体の対応にもつながってくると思うんです。

 私は、スリーマイル島の調査委員会の報告書が日本に来て、科学者のシンポジウムをやったときの記録を読んだときに、ハインリッヒの法則というのをそこで知ったのです。今は医療事故なんかでいろいろ取り上げられていますけれども、私はそのときに知って300対29対1、大事故の背後にはもう一歩で大事故につながるものは29あり、そのさらに背後には事故の卵が300あるということをそこで知ったわけです。今、まさに福島原発は29なのか1なのかという境界線上にあるわけですが、我々が福島原発からどこまで深く学ぶかが原発事故の再発のみならず日本の将来にとって決定的な意味を持つんだろうというふうに思うんです。

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-情報公開を求める-

 これからじゃあ具体的にどうしていくのかというところは、ちょっと皆さんとまた相談したいのですが、まず仙台の弁護士は今、地元の原発の安全対策を地元の人間が情報公開の方向でチェックするということをしようじゃないかということを合意して、この運動を広げていこうと思っています。既に私の名前で、あの日、女川原発で何が起きたのか、女川原発に関して宮城県に寄せられたすべての情報を情報公開請求していますので、これが6月13日に開示される予定です。オンブズマンは本来、お金の問題を追及するのですが、やはり情報公開に熟達しているという点では、我々の技術を今回使わない手はないだろうということで、北海道東北ネットワークで同じ方法で自治体と原発との情報のやりとりを公開しようと。これをできれば全国に広げていきたいというふうに思っています。地元の人間が地元の原発について、もっともっと知る。それを情報公開という方法で知って、自治体の生ぬるい姿勢を変えていくというところが一番大事なのではないかというふうに思っています。

 自治体は皆さんご承知のとおり、国が新たな安全指針をつくってくれて、各原発がそれを乗り越えさえすればそれでオッケーという、本当に国頼りというか、国頼みの姿勢から抜けきっていません。福島の佐藤栄佐久知事なんかは、みずからそれをチェックしようとして、一説によるとああいった刑事事件で追放されたと言われていますけれども、でもそれをやらなければいけないですね。さすがに各原発、地元の自治体が絶対ノーだという場合に、それを押し切ってまで再開できるということではないので、ここが一つ戦いの場になるのではないかというふうに思っております。

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-被害者の法的救済-

 それから今避難している人たち、この方々は本当にお気の毒なんですが、この方々の法的な救済を、これは仙台や福島の弁護士たちだけではとても手に余るので、これはぜひ東京のたくさんの弁護士の方々に救済活動に参加していただけないだろうかと。彼らは結局、いつまで避難しているのかわかりませんし、故郷に戻れない場合、その被害というのはどういう被害なんだろう。どういうふうに積算していくんだろうということも新たな課題としてあるわけです。それから、被害を立証する資料というのも持ってきていない場合もあるわけで、法的な厳密な立証ということになると、立証手段がないわけですね。それから、避難している方々が原発の危険性を身をもって訴えるという、戦いの主体になってほしいというふうに思っています。救援を受けつつ自分たちをこのようにした原因はそもそも何だったんだということを、彼らが中心になって追及していく、そういう動きをつくっていかなければいけないだろうと。これは仙台、福島だけではとてもできないので、ぜひ東京の弁護士の先生方のご助力をいただきたいというふうに思っております。

 それから日弁連に原発調査をぜひ実行してもらいたいと思っています。やはり日弁連の力、あるいは対社会的な信用力というものがありますので、日弁連が各原発に調査に入って問題点を指摘する。今、事務総長が海渡さんで原発訴訟をやっていたスペシャリストですので、ぜひそういうふうにしていただきたい。それは結局、さっき僕が申し上げましたように、地元の弁護士が地元の原発を追及する、あるいは避難している被害者を救済するという運動の中で、日弁連も腰を上げるのではないかというふうに思っているのですね。

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-国際連帯と現地調査-

 国際連帯もやっぱり一つのキーワードになる。さっき言った日本の神話を脱却させるためには、日本の中だけで動いたのではいけないし、やはり今回の問題は国際的な反響も極めて大きいので、国際連帯をしながら日本の電力会社の考えを変えていく必要があるのではないかと思っております。今日、午後に内閣不信任案がどうなったのかわかりませんけれども、我々からしてみると、そんなことをやっている場合じゃないだろうと。非常に特徴的なのは被災地に国会議員の調査がないんです。本当に来ていないのです。地元の国会議員はもうしゃかりきになって動いています。しかし、九州とか四国の国会議員が現地に入ってきているという話を聞くということはないので、結局は東北の問題というふうに考えているのではないでしょうか。政府の担当者たちはたびたび来ていますけれども、国会議員が本当はわんさか来て、我々の話を聞いてもらう必要があるんですね。

 気仙沼は、何とかかんとか自衛隊の救援物資なんかも行き渡って、生存するに必要なものは大体満たされてくるようになりました。私が最初に行ったときは、本当にお米もないし水もないという状態だったのですが、それはもう脱却しましたけれども、産業をどうやって復興するのか。水産加工業を復興させたくても、その部分はもう水浸しになって多額のお金を投入して基盤整備をしないと、とても工場を建てられない。そのお金は一体誰が出すんだ、それから生活支援金だってまだ出てないでしょう。あれは予算が通ったのかどうかわかりませんけれども、我々法律相談で100万円出ますよ、家を直せばさらにこれだけ出ますよと言っていても、いつ出るんですかと言われても答えようがないですね。そういう点では、今の管政権がスピードがないという点では全くそのとおりなのですが、しかし谷垣さんがやればうまくいくのかというと、そういう問題でもないんですよね。にもかかわらず今、国会ではああいったことをやっていて、総理大臣をかえればうまくいくというのも私は神話ではないかというふうに思うんですね。

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-安全神話をうち破る-

 そんなことで、そろそろ話を終わりたいと思いますが、私が今日申し上げたかったのは今も問題になっている安全神話というのは非常に根深いものがあって、それは我々の心理的な要因だけではなくて既得権、利害というものと大きくかかわっている。福島原発がもうこのまま収束することを本当に心から願ってはいるのですが、収束すればしたで安全神話が復活して福島原発事故の持っている本質的な意味を脇に追いやられてしまって、その結果、第二の事故が起きてしまうのではないか。そうなると、さっき石橋さんが言っているように、本当に国家の滅亡ということすらあり得るんだろうと思うんです。

 私は今回、大島に行って水道もないし電気もないので、水は井戸をもう一回掘り起こしました。何十年も使っていない井戸だったのですが、4回くみかえたら、本当にきれいな水が出てくるようになって、それでポリタンクに載せて一輪車で運びました。それからプロパンガスだったので煮炊きはできたのですが、お風呂が沸かせなかったので、拾ってきたドラム缶を切って流れてきた材木を薪割りして、火を燃やしてお湯を沸かして両親の体を拭いたんです。その火を見ながら、これでいいんじゃないかという、この生活でだめなのかなという疑問がわいてきました。今まで一体何だったんだろうという気もしたんです。安心して健康で暮らせるのならこれで十分なんじゃないかなという、そういう気もしたんですね。いつ原発が事故を起こすのかとハラハラした状態で、ぜいたくな生活をするよりは安心して暮らすことを優先すべきではないか。だって明治時代までは原発がなくても人類は生きてきて、それなりの幸せも味わって一生を終えてきたわけですからね。電気という神話にとりつかれたために、我々だけじゃなくて将来の人類、将来の日本の国民の幸せを一挙に奪ってしまうということは、どう考えてもおかしいことではないかなと。

 しかし、我々が今頑張れば、それを取り除くことは可能だと思うのです。神話を破壊するのは事実と行動だと思うんです。事実を情報公開でどんどん出して、宮城県はこの程度のことしか報告されていない。何だと。これであなた方は県民に対して安全が保証できるのかという形の突き上げが、やっぱり今まで足りなかっただろうというふうに思うんです。そういう形で努力していきたいというふうに思いますので、また東京の皆さんにもご協力をいただくことがあるかと思います。よろしくお願いしたいと思います。

 ちょうど時間になりました。よろしいでしょうか。どうもありがとうございました。(拍手)

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-座談会-

【宮本】
 今、原発の訴訟はないんですか。

【小野寺】
 福島第二原発訴訟は今はないですね。最高裁で棄却されて。

【宮本】
 最高裁の判決は。

【杉井静子】
 平成4(1992)年。

【宮本】
 実態審議は始まっていましたか。

【小野寺】
 もちろんそうです。福島原発というのは、本当に一番古いんですよね。昭和41(1966)年に安全審査がかかっていますから、私たちがやったのは第二原発ですので、第一原発がほとんど出来上がった後ですね。結局、第一原発のときには反対する人たちを結成できなくて、裁判まで行けなかったと言っていましたね。第二原発のときに400人、原告を構成できて裁判をやることができたのですけれども、それでも2年半ぐらい訴えの利益で、もう時間が食わされてしまって、訴訟に入ったのは大分後でした。ちょうどスリーマイル島事故が起きるころから、ようやく裁判所も、じゃあ実態審議に入ろうかということで、2年半ぐらい、本当に無駄な議論をさせられたという記憶がありますね。

 それでこの前、私が車を取りに鶴岡に行ったときに、脇山先生と原発の昔話になって、彼も私も忘れられない言葉があったんですね。それは、被告の準備書面にたびたび出てくる言葉なんです。「危惧懸念の類」という言葉なんです。原告の言っていることは危惧懸念の類だと。第一、今まで起きたことないじゃないかということだったんですね。スリーマイル島が起きるまでは、現に起きてないじゃないかと。起きたら起きたで、今度はいやいや、あれは人為ミスだという話になってしまったのですけれどもね。

 第一原発はゼネラルエレクトリックがつくって日本に持ってきたのですが、GEの社員で設計に加わった人たちが2人、その後、とてもじゃないけれどもこんな危険なことはできないというので告発して辞めたということもあるぐらい、これは古い炉なんですね。それから40年以上経っていますので、あちこちが傷んでいるし、これから情報公開がどこまで進むかわからないのですが、地震そのものによって配管が破断して、津波が来る前に冷却水が喪失したのではないかという疑いも今出てきています。ですから、そこがおそらく勝負どころで、地震そのものによって格納容器がひび割れするとか配管が壊れたということになると、これは全国の原発に共通することなので、そこまで行かないようにしようとして、福島原発事故の情報公開が極めて恣意的に行われるのではないかという疑いを持っています。

【宮本】
 今、しきりに津波に誘導しようとしていますね。IAEAも今度の報告はそれに引きずられた感じが。

【小野寺】
 引きずられた感じがします。だから、本当の原因というものを本当に出してくれるのかどうかですね。女川なんかは再稼働したいのですけれども、地元がうんと言わないと。地元は国が新たな指針を出して、それをクリアしなければ認めないという状態です。そうすると、国の安全審査、新たな指針がどういう中身になるのかということが一番大事なのですが、それは結局、津波でこうなったのか、地震そのものでそうなったのかというところが一番重要なところなので、はたして本当のことが出てくるかどうかです。

【杉井厳一】
 東電が地震では破損していなかったというようなことを、発表されたというふうに。

【小野寺】
 最近の新聞では、どうも地震そのもので破損した可能性もあるということが2~3、報道では出てきていますね。放射能が出る時期が早すぎた。何号機だったか、ちょっとメモをしていませんでしたが、その可能性はあるんじゃないでしょうか。配管が破断して中の冷却水がなくなったと考えたほうが計算が合うという記事が出ていました。

 結局、あそこの中に入っている放射性物質というのは、原爆などの量と桁がまるで違うんですよね。何万倍という形で入っていますから、その出方いかんで日本の国を壊滅させることもできるし、何だってできてしまうわけですね。だから今、国会でこんなことをやっていますけれども、あの汚染水をどうするのか、あれだってもう全く検討がつかないですよね。フランスの何とかという会社でやるというのですけれども、1トン1億円とか何とか言っていますよね。20兆円を一体誰が出すんだと、ぼったくられているんじゃないかという気もするのですが。かといって水を入れ続けなければならない。

 たぶん今はもしかすると燃料棒は圧力容器から落ちて、格納容器の底に溜まっているかもしれない。もし圧力燃料棒は容器の中に入っていれば、これはスリーマイル島と同じなんですが、今はもう、どうやら圧力容器の中にとどまっていたとしても穴が空いているので、水がかけ流しみたいな状態で流れていって、結局水に接する面積が狭いものですから、なかなか冷えないわけですね。通常は、燃料棒というのはこのぐらいの太さで吊っていて、そこに制御棒というのが数秒でドンと入ってしまうんですね。その制御棒が中性子を吸収するものですから、核分裂反応も瞬時になくなるわけですけれども、中の放射性物質が出す放射能がエネルギーとして熱が出るわけで、もうガクッと下がることは下がるのですがゼロにはならない。入れた瞬間に数パーセントまで熱は下がるのですが、10秒後には6パーセントまで下がります。1時間後には1.8パーセント、1日後には0.8パーセントまで下がるのですが、それでも1日後の0.8パーセントでも2.4万キロワットぐらいの熱を持っているものですから、今現在、中は3,000度ぐらいに熱せられて、表面だけが冷やされているという状態です。こういう状態であれば水が中を行き渡っていますので、表面積が広いものですから冷えるのですけれども、上だけが冷やされている状態なので、いつになったらどうなるかというのは全く検討もつかないですよね。二号機が循環ができたというのですけれども、1、3、4の循環がまだできないんですね。このままずっと水を垂れ流すとなると、その水をどうやって交換していくのかという、人類がいまだ経験したこともない状況に今あるわけですよね。

 スピーディーだって予測した結果が当時の11日、12日とか、14日、15日の結果を発表していないんですよね。だから、一番危ない時期に、館腰村なんかでは寒くて子供たちを外で遊ばせていたというわけです。あの当時、どれぐらいのものが空気中にまき散らされたのかというのは、データとしてはわかっていない。さんざんまき散らされたところで生活をさせておいて、今になって計画的に避難しろというのはあべこべじゃないかと怒っています。それだって、そのデータを発表するしないというのは誰が決断したのかということですよね。最終責任は政府にあるのか、東電にあるのか。おそらく後で調査をすればヤブの中みたいな話になるんじゃないでしょうか。だから、最初の段階でさっき言ったように、誰が最終判断を下すのかという、その原理原則が確認されないまま突入してしまったので、班目さんみたいな安全審査委員会の委員長が出てきて、ゼロパーセントじゃないと言ったら空気が変わったとか言っているわけでしょう。それが社長に伝わったとか伝わらないとか、何をやっているんだという感じですよね。

【杉井厳一】
 どうぞ、ほかの方も。

【松縄】
 僕も今回の件で原発の危険性というのがニュースとかで報道されるまで、そんなに危機感というのは率直に言ってなかったのです。僕の世代だとスリーマイルのときにはまだ生まれていなくて、チェルノブイリのときにもまだ何歳かということなので、当時じゃあ日本でどういう報道がされたとかも全然わからないし、名前とかは当然知っていますけれども、どれだけの危機感を持たれていたのかというのは全然わかっていないところがあって、そういう意味で原発がどれだけ危険性を持ったものなのかというのがわからなかった。たぶん自分だけじゃなくて皆さんもわかっていないところがあって、そういう意味で原発の危険性があまり一般的に知れ渡っていない、完全に解明されていないんだということをみんながわからなかったというところがあると思うんです。

 ただ、僕なんかは原発からある程度、距離的に離れたところにいるので、原発訴訟とか当然、周辺何キロとかという距離の方たちだと思うのですけれども、そういう方たちの認識としては原発の危険性というものに対する認識というものが、僕たちと違ってどこまで深いものというか、具体的なものなのでしょうか。

【小野寺】
 全く同じですね。むしろ、そのおかげで食べているという人がいっぱいいますので、さっき言った利権構造に完全に組み込まれているので、そうなるとどうしても信じたくなりますよね。全く同じです。だって今回、女川原発で被災者の人たちは原発の中に避難しているのです。いまだに200人くらいいるのですから、それだけもう安心し切っている。女川原発だって危なかったんです。余震のときだって外部電源が一時喪失して、やっとこすっとこやったでしょう。ですから同じじゃないでしょうか。

 私も15日の夜、家族を説得して行こうというときに、考えてみると外に出るとみんな平気でスーパーの前で並んでいるわけですよね。俺のほうが頭がおかしいんじゃないかというふうに思いました。しかし、その危ないということを察知していて逃げる能力もあるのに、それをしなかったために後で取り返しのつかないことになったら死んでも死にきれないというふうに思って家族を説得して、うちの奥さんも娘も、まあお父さんがそこまで言うならしようがないから付き合ってやるかという感じで付き合ってくれたのですが、今報道を聞いていて、特に11日、12日、それから14日、15日、16日のあたりが仙台だってそれだけ被爆したのかわからないという状態を知って、よかったんじゃないかというふうに言ってくれたのですが、家族ですら同じなんです。絶えずそのことを話ししていたわけじゃありませんから、震災で冷却不能ということになって初めて私が実はこれ、とんでもないことなんだということを言い出して、家族もぽかんとして最初聞いていたのですが、あまり私が深刻に言うものですから。

 私はうちの息子が京都に住んでいて、孫も京都にいるのですが、もし大事故になった場合に首都圏から一斉に関西に逃げるだろうと。そうすると、京都にいても逃げ遅れてしまう可能性がある。ラッシュに巻き込まれて逃げられない可能性がある。せめて孫だけでも避難させろというふうに強く言って、奥さんの実家が佐賀だったものですから、佐賀に10日ほど孫だけ避難させたんです。嫁さんには後で笑い話になることを望んでいるけれども、ここはもう私の判断にいったん従ってくれと。後で何とでもお詫びをするからと頼んで、九州のおじいちゃん、おばあちゃんは10日間ですっかり4歳の孫に翻弄されて、もう限界だというので帰ってきたのですが(笑)。仙台弁護士会でも何人かの人は避難しましたが、ほとんどが避難していないので、同僚の弁護士には知識があるのも考え物だと言われて。そう言っていられるのが幸いなことではないかと言ったのですけれども。

 本当に15日、僕が生きている間に来たかと思いましたね。いつかはあるかもしれないとは思っていたけれども、まさか俺が自分が生きている間に来たかという感じでしたね。しかし浜岡だって危ないじゃないですか。運転停止したといっても外部電源が喪失すれば同じことになって、今度は東京が危ないんじゃないかと。

【杉野】
 危機に関する認識そのものがあまり都心の人間と変わらないということを今伺ったのですが、提訴当時の話なんですけれども、そうすると第一原発のときには結成し得なかった反対運動を提訴にこぎつけられたというのは、どういうことがあったのでしょうか。

【小野寺】
 これは私も提訴に至る経過はわからないのですが、科学者会議の方々が非常に協力してくれたお陰です。とてもじゃないけれども弁護士だけの力では遂行できなかったと思うのですが、福島の科学者会議の方々、それから東京の原発について研究している科学者の方々が全面協力してくれまして、そのおかげだと思うんです。今日の朝日新聞に志賀原発で差し止めの判決を書いた元裁判長のが一面に載っていましたけれども、結局、立証責任は原告側にあるわけですので、そうすると国の基準をクリアしているけれども、なお危ないということをこっちが言わなければいけないわけでしょう。これは、事故でもない限りは、なかなか難しいんです。向こうは国の基準をクリアしましたと。これで安全ですというふうに言えばいいわけです。それでも危ないんだと。指針自体がだめなんだということを言わなければいけないわけですから、大事故でもない限り、指針自体が甘いんだということを裁判官に説得するというのは、よほどの事情がないと難しいんじゃないでしょうか。

 そうなると裁判所に持ち込んでもだめなんだ、もっともなことがちっとも通じないんだということになると、やっぱり裁判所に頼ろうという気もなくなってきてしまうわけです。オンブズマンでも勝つこともあるんですけれども、負けることも多くて、行政裁量で負け続けたりすると、もうやってられないという気になるんです。じゃあ勝手にやったらという感じにもなって、裁量によっていかに行政が裁判所による甘やかしを受けてきたかというのは、つくづく感じますよね。

 オンブズマン活動の場合は、僕らがみずからが原告になってやるので、負けても一杯飲んでもう一回やろうかということで立ち上がるのですが、一般の市民はやってられないという感じですよね。じゃあ勝手にしたらという感じなので、なかなか市民運動として裁判を使って事実を変えていくというのは、結構大変です。うまく勝てばいいのですけれども、負けたりすると何かもうやっていられないという気がして。

 だから、私も十何年、オンブズマン活動をやっていますけれども、モチベーションを維持して、しかも若い人たちに関心を持ってもらって、うまく世代のバトンタッチをしていくというのは、なかなか大変です。仙台は幸いバトンタッチがうまくいって、私たちは完全に一線から退きまして、40期ぐらいの人たちが中心になってやってくれていますので、非常に助かっているのですけれども。

【宮本】
 宮城県の場合は、一時期、行政の対応がよかったというのがありますか。それで力づけられたと。

【小野寺】
 結局、何だかんだ言っても裁判のおかげで変わってきていますからね。例えば、議会の政務調査費なども宮城県を相手の裁判でやって、今宮城県議会の政務調査費は先に自分で使って後から請求する。会派がそれをチェックして出す、それを全部記録に残すというようなことで制度和解をしましたし、何だかんだ言っても変わってはいるんですね。変わってはいるのですけれども、裁判所との関係で本当に空しさを感じることがたびたびですよね。

【杉井厳一】
 仙台が一番成果を上げているのではないですか。

【小野寺】
 いや、結構負けているのは多いです。本当にもう誰が考えてもおかしいと思うことでも、裁量逸脱ということになると、点数で言えば20点でもオッケーなんですよね。0点だということを言わなければいけないわけでしょう。しかし、例えば議員がどこかに行って調査をしたと。町を歩いたって都市計画を見てきたと言えばそれで済むし、全く無駄ということはないんですよね。それを完全に無駄だということをこっちが言わなければいけない。点数で言えば10点でもオッケーです。裁量の範囲内だと言われてしまうと、何かもうやっていられないという気になることもあるんですよね。

【杉井厳一】
 幾らか行政法上、裁量をチェックしようという動きはあるようですけれども、そのあたりはあまり効果がないですか。

【杉井静子】
 若干、法改正もあったかと思うんですが。

【小野寺】
 行政の改正作業、日弁連の委員会に入っていましたけれども、その議論はされましたが、全然現場には出てこないですね。本当に議員の証人尋問で、とことんやっつけて、すっかりいい気持ちになって、でも判決見ると全然。そうすると、向こうは元気づくわけです。裁判所のお墨付きを得たということになってしまうと、やらなかったほうがよかったかなと。

【杉井静子】
 諸外国では立証責任の転換とか、そういうのはあるんですか。

【小野寺】
 どうなんでしょうね。私も諸外国まで研究したことないですけれども、裁量というのは本当に原発もそれで負けたのですけれども、何なんでしょうね。

【杉井厳一】
 一応、原告適格については、最高裁のあれで広がった面もあるからね。

【小野寺】
 原告適格は、かなり広がったのですけれどもね。

【杉井厳一】
 そういうのがあるから、今一番は、やっぱり裁量なんでしょうね。

【小野寺】
 原発だって、事故によって初めて裁判所の判断がおかしいということがわかって、さっき私、東西線の話をしたのですが、私は2015年の開業まではどうしても生きていなければいけないわけで、開業初日の乗客数を見届けなければいけないのですが、そこで我々の予言がもし正しかったとすれば、そういう形でしか判決の誤りを立証できないことになるわけですね。そうすると、判決というのは一体何だったんだ、経過の中のエピソードの一つに過ぎず、結局、現実によって白黒をつけるしかないということになるわけですね。そうならないために起こした裁判なんだけれども、単なる経過のエピソードの1つに過ぎないことになってしまうのかなという、原発はまさにそうなんじゃないでしょうか。

【杉井厳一】
 起きてみたら大変なことになってしまうとね。

【小野寺】
 そうならないために裁判をやっているのですけれども、そうはなかなか難しいですよね。

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【杉井厳一】
 尾久さん、どうですか。経験した目で先生の活動なんかもちょっと幾らか紹介してくれたら。あなたの目から見て。

【尾久】
 議会ウォッチングは今もされているんですか。

【小野寺】
 あれは、やりましたよ。だんだん我々も進化しまして、議会ウォッチャーというのをつくって、震災前、ちょうど2月に発表したんです。4年間、仙台市議会をみんなでウォッチして出続けて、それで通信簿を発表しました。ネットでどうぞ見てください、仙台市民オンブズマンで見ると「議会ウォッチャーズ仙台」というのが出てきますので。

 それだけじゃなくて、4年間の本会議の議事録を全部取って、質問について点数をつけて、その点数のランキングを出したんです。これは結構大変な作業でした。それで、いよいよ統一地方選挙で我々の成果ががどこまで生かされるのかというふうに思っていたら、大震災になって、それどころじゃなくなってしまった。

【尾久】
 地震の関係なんですけれども、ちょうど私がお仕事させていただいたころ、町村合併があって、歌津とか、あの辺の人が気仙沼地震があって大変で、債務超過でという方が結構いらっしゃっていた記憶があるのですけれども、今回の津波の被害を見ていて、その当時、小さな町がどんどん町村合併をして生活しずらくなるみたいな話を依頼者からちらちら聞いていたことがあって、何か影響があったのかなと思ったのと、私がいたときでも震度5くらいの地震で既に家計が破綻した人が結構いらっしゃったのに、これからもそういう倒産とか破産とかの関係というのは増えつつあるんですか。

【小野寺】
 増えつつあるというか、今、僕はADRの委員会もやっているのですが、震災ADRというのを新たにつくったんです。申立件数が、もう100件を超えました。それから今、仙台弁護士会では被災地に法律相談にこちらから行って、東京からも何百人か来てもらってお手伝いをしていただいたのですが、それはずっと繰り返してやっています。結局、ローンが残ったとか、海岸地帯はもう解雇の嵐です。ほとんどの会社はみんな解雇して、とりあえず失業保険で食ってくれということで、ハローワークの前はずっと人だかりがすごいですよね。事業者にとっては何億という債務があって、全部流されてしまうわけですから、どうやって再建していくのかというのは全く検討がつかないですよね。70センチ以上地盤が低下してしまって、本当に水浸しなんです。誰がやってくれるんだと。今の状態だと国の予算が動かないし、県も動かないしということで本当にがれきを撤去して、その程度ですね。

【杉井厳一】
 今の状態だと戦後の復興と違うところは、地盤は一応あって、そこはぐしゃぐしゃだけれども、そこを片付ければ土地が出てくるし農地も出てくる。今は、そうはいかんのですよね。

【小野寺】
 そうですね。農地といっても、いったん塩水がかぶっていますので、結構大変なようですね。急には使えないですね。それから、一番悩ましいのは水が上がったところに住まわせるかどうかということですね。ほかのところといっても場所もないし、結局は危なくても戻らざるを得ないんじゃないか。本当は、行政のほうでそこに規制をかけて建てさせないようにしようと思っているけれども、かといって、じゃあどこに行けばいいんだという話になってしまうんですね。

 私の両親なんかは、弟の家の隣が空いているものですから、早速簡単な家を今つくっているのですけれども、ほかの方々は仮設住宅に入るか、そうでなければ自分で土地を探して土地の取得からやっていかなければいけないのですから大変ですよね。義援金もまだ入ってこないし、生活支援金だっていつになるかわからないから、本当はそういう意味では管さん、早くしてよというのは、それは皆さん共通なんですが、谷垣さんになればじゃあ大丈夫かという類の問題でもないんですよね。

【尾久】
 東京側から手伝えることって何かないですか。

【小野寺】
 当初は下着なんかもなくて、うちの修習生が関西出身だったのだけれども、メールでいろいろ呼びかけたら私の事務所に段ボールで110個下着が来ました。毎日20個ぐらい、うちの事務所の離れがサロンになっているのですが、そこに山ほど重なって、それを男、女、男の上、女の下とかって全部分けて、サイズごとに分類して、バランスよく詰めて、あちこちに持っていきました。せっかく皆さんから送ってもらったので、気仙沼の大島にも送ったし、気仙沼にも送ったし、南三陸町も、ありとあらゆるところに持っていってもらって。当初は非常に感謝されました。今はお店も開くようになったので、そういう点では、一番必要なものというのはお金じゃないですか。だから、早く義援金とか生活支援金を出してもらいたいと思うのだけれども、予算が通らないせいなんですかね。

【杉井静子】
 あと、原発の情報公開というのは、どういう形でやっていけばいいんですか。

【小野寺】
 私らは宮城県に東北電力から出された3月11日以降の一切の情報と資料という形で情報公開しました。それから今度、宮城県から東北電力に出した情報と2つ開示させて、結局宮城県自身がほとんど積極的な監視活動をしてないじゃないかということをあぶり出していきたい。自治体の姿勢を徹底的に突き上げて改めさせるということなら、地元の住民が十分できることなので、そこに勝負をかけようかなと思っているんですね。宮城県がうんと言わなければ、さすがに女川原発は再開できませんし、石巻市がうんと言わなければ再開できませんので、そこを狙おうかというふうに思っています。

 そして国頼みじゃなくて、自治体がみずから安全監視体制を強化してチェックして、住民に対して大丈夫だよということが言えるような状態をつくれと。だって、今避難している地元の自治体は長年交付金で潤ってはきましたけれども、おそらくオセロゲームみたいなもので今までの分が全部チャラになっているじゃないですか。今まで20年、30年、いい思いをしたとしても、今後20年も30年も戻れないとなれば、何だったんだということになりますよね。だから、もうちょっと原発に対して厳しい目で見なければいけなかったのに、やすやすと利権構造の中に取り込まれて、自分たちは町民に対してとんでもないことをしてしまったというふうに反省している議員が何人いるか、いずれ聞いてみたいというふうに思うんです。今、あなたはどう思っているんだということをですね。本当にかわいそうです。テレビで皆さん見ておわかりだと思うんですが、故郷を離れるというのは本当に辛いことだと思うんです。

【両部】
 悪しき慣習っていうんですか、安心感だったり仲間はずれの恐怖感というので、つい神話をつくってそれに乗ってしまうという、これをしないために一人一人ができることというか、私でもできることって何かあるのでしょうか。

【小野寺】
 何なんでしょうね。

【両部】
 私は高校のとき生徒会にいたのですけれども、生徒会も悪しき慣習であったなと今話を聞いていてすごく思って、ある制度をつくろうと思っても始まったときと終わったときで役員が全然違う。半年ですぐ変わってしまって、先輩たちが何をやっていたかも全然わからなくて、何をどう責任取ればいいのか全然わからないみたいなところもあったりとか、変えようと思って動いても今までどおりにやるのが一番楽でいいというふうにも言われたことがあって。聞いていて耳の痛い話だったので、自分もこの中にいたんだなと思って。

【小野寺】
 それは日本の社会の中の至る所にあるんじゃないでしょうか。さっき申し上げました今日、朝日に志賀原発で差し止め裁判の判決を下した裁判長、今は弁護士になっているのですけれども、あの方がインタビューに答えて、やはり国の専門家が安全だと言っているのに、素人の裁判官がそれはだめだ、危険なんだ、差し止めろということは、それはなかなか言える雰囲気じゃないということを言っていましたよね。僕は、そういうのってあるんだと思うんです。変わり者というふうに見られてしまうという恐れですよね。まだ弁護士会なんかは変わり者がたくさんいるので、少々変わったことをしても誰も何だっていうことは言わないけれども、やっぱり裁判所みたいな均一な組織だと、少しでもそういう変わったことをすると、もうあいつはこうだというふうに見られてしまう。その恐れというのはとても大きいんじゃないかなというふうに思うんです。特に、日本はその傾向が極めて強い社会じゃないでしょうか。異端だというふうに思われてしまうと、もう居心地が悪くなってしまうわけですよね。それがやはり空気をつくっている犯人の一人ではないかと私は思っているのですけれどもね。

【宮本】
 今、裁判所というのは企業のほうを向いていて、行政のほうを向いていれば無難ですからね。それだと客観的に間違っていても別にそれでいいわけです。

【小野寺】
 僕は医療事故がかなり多いのですけれども、事故隠しというのにたびたびぶつかりますよね。それが暴かれて組織が外から叩かれてとんでもないことになってしまうということを見ているのに、なんで隠すんだろうというふうに思いますよね。しかし、考えてみれば、目の前のこの事故が隠し通せる事故なのか、暴かれる事故なのかというのは、これはちょっとわかりませんよね。そのときに隠し通せたにもかかわらず、気前よく情報公開したとすれば、これはきっと仲間内に批判されます。黙ってればいいのに、そんな正義感面して公開して、私たちは責任を取らされたとか何とかいって、いられなくなります。それよりは隠して、暴かれて叩かれても、それは全体が叩かれるわけですから、自分個人が叩かれるわけじゃないので、そっちのほうがよほど居心地がいいというか、ここだと思うんです。

 だから、どうしても隠すほうに行ってしまうんですね。確率に対する信頼でもあるけれども、同時にだめになったときに自分一人が叩かれたくないという、この恐れですね。たとえ暴かれた時のリスクが大きくても、ついつい隠す方向で判断してしまうんだろうというふうに思うんです。それだけに我々は事実をきちんと出して、神話の霧を少しずつ払っていかなければいけないだろうと思いますよね。

【麻生】
 原発のことなんですけれども、賛成意見は別として反対している人と特に反対じゃないという人の差って、原発の設備自体が安全かどうかというよりも放射線物質が健康に与える影響も危機感に変わる気がするのですけれども、この第二原発の訴訟のときは健康に対する害があるというのが当然の前提で判決がされたのか。設備だけの問題だったのか。

【小野寺】
 それもやりましたね。原発からもし放射能が漏れた場合の被害で、今、20ミリシーベルトとか何とかと言いましたけれども、私たちが裁判では閾値があるのかというのがずいぶん議論になりました。それ以下だったら大丈夫、それ以上だったら危ないという区切りがあるのかというので、我々はたぶん閾値はないと。どんなに少なくてもリスクはあるんだということをずいぶん議論してきました。
 今、この辺は0.05くらいですか。

【宮本】
 0.07とか。

【小野寺】
 仙台が0.1から0.09くらいですかね。年間だと大体1ミリシーベルト以下にはなるんですけれども、福島とか郡山なんかは大変なんですよね。本当は計画的避難区域に入るべきところなのだと思うんですが、とてもじゃないけれども、あれだけの人間を移転できないので置いているんじゃないかというふうに思っているんです。お母さん方が危機感を持っているのは当然で、だって子供たちが校庭で遊べないというのは僕は虐待じゃないかというふうに思うんです。机の上で腹筋なんかやっているでしょう。かわいそうですよね。子供が外で遊べない小学校、子供が外で遊べない保育園というのは何なんだという気がしますよね。しかも、それがいつになったら遊べるようになるかというのは、全然目途が立ってないですよね。

 それほど11日、12日、あるいは14日あたりに放射能がまき散らされたのですけれども、当時、情報公開がされなかったですよね。NHKの爆発はしましたということだけであって、直ちに健康に害はないと言っただけで、ひどい話です。私は、だから家族には、あいつらが言っていることは嘘だということは大いにあり得るから、ともかくここは俺を信じてくれというので言ったのですけれどもね。

 そういう形で、放射能の危険性をやはり身近なものとしてとらえて、そこから原発の問題を考えてもらうということがいいんじゃないでしょうか。ぜひそうしてもらいたいと思います。今までのほかの事故の被害と全く規模と性質が違うわけですよね。太平洋は死の海になるんじゃないかと本当に僕は心配しているんです。そうなったときに、それが何十年経てば元に戻るかという見通しは全くないわけですから、明治の大津波でも三陸沿岸で2万人死んでいるんですけれども、しかしきちんと復興していますからね。だから、津波だけだったら何とかかんとか死んだ人間がいても子孫はきちんと復興して、普通の生活ができるようになるけれども、原発はそれはもう不可能ですよね。

【杉井厳一】
 あと、いいですか。

【小野寺】
 確かに今、先生がおっしゃったように、若い先生方は原発というのは、この事故が起きるまでは全く。確かにそうだと思うんですよね。その神話を乗り越えていかなければいけないわけですから、だから選挙をやっても、たぶん原発推進側は結構勝つんじゃないですか。地方選挙になった場合。この前の統一選挙だって、重要な争点としてあげられましたけれども、当落を決定する理由になっていませんからね。各自治体の議会は、おそらく電力の手が回っていますので、選挙になれば推進側が議会の過半数を占めることは間違いないわけです。

 僕は、そういう意味でも今避難をしている方々が、法的な救済をきちんと受けられると同時に、彼らがやっぱり原発の危険性を、彼らの言葉でしゃべってほしいというふうに思っているんです。戦う主体になってほしい。でも、テレビで見ていると怒りがないんです。しようがないとか、嘆き悲しみは言っても、そういうことを引き起こした東電に対する怒りが感じられないので、そこは何とかそうなってほしいなというふうに思うんですね。

【宮本】
 私はそれを感じていて、メディアが声を選択して、そういうふうにシフトしているのではないかという気がするんですけれどもね。

【小野寺】
 嘆き悲しみだけでしょう。怒りがないですよね。もし隣の人がああいうことを引き起こして、自分たちがそういうふうになったら、もうとんでもない紛争に発展するはずですよね。僕は、やっぱりそのためにも避難している人たちに対して早く弁護士がついて、法的救済のお手伝いをしながら、そういう方向に持って行けないだろうかというふうに思っているんですね。どこか事業相談か何かで調査団を派遣して、避難しているところにみずから行って相談に応ずるというようなことをやってもらいたいなと。今、仙台、福島は地元の被災の世話で忙殺されているんですね。ちょっとそこまで手が回らないので、東京の弁護士の皆さんに、ADRを活用するという話もできていますので、さほど厳密な立証はなくても賠償がされるし、1回こっきりじゃなくて何度も賠償を繰り返させることにもなるので、ぜひ皆さんがんばってもらいたい。

【宮本】
 今、最後のところで、日弁連で各県の弁護士会から震災支援に人が行っているでしょう。ところが今一つ問題は、そのための相談料とか、日当とか、そういうのは法テラスが出しているんですね。財務省と法務省から、例によってというか、私は理不尽だと思うけれども、チェックがかかっていて、一件も相談がない場合には出してはならないということになりそうなんです。実情、いろいろな人から聞くと、件数としては相談にならないという場合はあるのだそうです。その場にいても誰も来ないから、みんなが回って、いろんな人の訴えを聞いて回る。一々その人に、「あなたの名前は何ていうんですか」とか、「あなたは収入は幾らですか」なんて聞けないから、相談のカルテも書けない。そうすると件数としては上がらない。それを財務省が目を付けて、一件もケースがないのになんで日当を出すんだということを言って、法テラス訪問を辞めるという通知を出そうとしているんですね。

【小野寺】
 当初は、やっぱり生きるのに必死で法律問題なんていうのは、さっき言ったように日常性の一コマですから、そっちに頭が行かないんですね。私も18日に大島に行って、直後、大島の法律相談を受けましたけれども、広報体制もなかなか手が回らなくて、法律相談をやりますよということが行き渡らなくて、一人か二人しか来なかったというケースもあるのですが、これからじゃないですか。ようやく落ちついて今後の生活を考えると、じゃあ住宅ローンをどうするのかとか、いよいよ生活再建というところになって初めて、つまり日常に戻って初めて我々が出てくるので、非日常のところでは弁護士が来たからって、それよりは食料が欲しいという感じだったんですよ。仙台弁護士会は結構立ち上がりが早くて、災害対策本部というのは阪神大震災の後つくって、ずっと研究してきたので、震災が起きるとほぼ同時に対策本部をつくって、その何日後かに委員長が法律相談のレクチャーをしたのですが、300人の弁護士が集まりました。その後各地の避難所に、どんどん派遣されて、ほとんどクリアしてやっていますので、あれは別に日当が出るとか出ないとか全く関係ない。しかもアクセスができないところを、みずから車に乗ってリュックサックを背負って行っているわけでしょう。その姿勢が重要だと思うんだよね。

【杉井厳一】
 そういう話も日弁連で少し入れるとね。初めて聞きました。

【小野寺】
 本当に仙台弁護士会は立ち上がりがものすごく早くて、すぐ電話相談を引いて、それから各避難所に対する派遣が相当早かったですよ。僕は阪神大震災の後、特別委員会ができて、ちょっとそこまでやる必要があるのかなというふうに思っていたのですが、つくづく、ああやっていてよかった、震災が起きてから急に組織を立ち上げたのでは、とてもじゃないけれども間に合わなかった。事前にやっておいて、もし震災が起きたときには、どういう態勢で臨むかというマニュアルもつくっていましたから、もう即学習会を開いて、300人も4階の講堂が弁護士会の会員で全部埋め尽くされたというので感動的でした。そのままその場で何日は誰々がどこに行けるかというアンケートが回ってきました。自分は、この日が空いているというので印をつけて流したら、それが一斉にスケジュールになって、あなたはここに行け、あなたはこの日、ここに行けというスケジュールが埋まってしまった。私は気仙沼で親戚なんかも被災したので、今回は勘弁してもらったのですが、ほかの方々はもうみんなリュックサックを背負って自分を車を持って、イソ弁なんかを連れて、ダーッと入っていきました。中には確かに相談がなかったのもあったのかもしれないけれども、僕はあの姿勢が大事だと思うんですよね。

【杉井厳一】
 我々自身もどういうふうに取り組んだらいいかというのを考えさせられる機会にもなったと思いますので、決して短い運動ではないと思いますので、これからも私たちは考えたいと思います。今日は、わざわざありがとうございました。

【小野寺】
 ご清聴、どうもありがとうございました。(拍手)

―― 了 ――

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