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事務所ニュース 2011年10月15日号
【3・11東日本大震災福島原発事故特集】
―小野寺信一弁護士との対談の全文(1)
【杉井厳一】
今日(2011年6月2日)は小野寺信一先生を仙台からお招きしています。この約束をしたのは市民オンブズマンの活動について少し教えていただこうということだったのですが、今回の震災で地震、津波とか原発を受けて現地で活動をされているということで、我々としても実情をきちんと知ってどういうふうに考えていくのか、いろいろな支援活動は始まっていますけれども、一番生で感じておられる先生からいろいろ教えていただくことが一番よろしいのかと思っています。そういう意味で小野寺先生をお招きしました。ご存じのように、小野寺先生は27期で36年くらいやられています。先生は、市民的ないろいろな活動とやっておいでになって、市民オンブズマンの活動は全国的に有名ですが、薬害のオンブズパーソンの活動もしています。今日のお話を大変楽しみにしております。
【小野寺】
仙台から参りました小野寺です。どうぞよろしくお願いします。
−地震が起きたときは−
尾久さん(事務局)、お世話になっております。こんな形で再会できるとは思っていませんでした。
先に地震とか津波のことを20〜30分お話をして、それから原発の話に入っていきたいと思うのですが、3月11日の地震のとき、私は仙台弁護士会の4階におりました。3時から第二東京弁護士会の児玉先生をお呼びして、医療ADRの講演会を開く予定で、病院の関係者を含め150人くらいを予定し、まさにスタートする直前だったのです。激しい揺れが始まって、ともかく長いんですよね。もう終わったかなと思うとまた激しくということで、後で聞いたら東京も相当揺れたらしいですよね。私の友達が東京に出張していて、すっかり関東大震災だと思って直後に奥さんに電話を入れて「俺は大丈夫だ」と言ったら、奥さんに「何言ってるのよ。こっちだよ」と言われて、ああ、そうかと思ったと言っていましたけれども、東京も揺れたのですけれども、仙台の揺れというのは相当ひどかったですね。それでもビルが倒れたとか崩れたということはなくて、私の事務所も本が全部外に出る程度で、けが人もなかったので、かつて経験した宮城沖地震以下かなと思いました。
しかし、すぐに停電になってしまってテレビを見ることもできないし、外からの情報というのはラジオだけだったんですね。その夜、全く暖房のないところで布団に入ってラジオを聞いていたら、荒浜で200から300の死体が見つかったという話が聞こえてきて、これは一体どういうことが起きたんだろう、もしかしたらとんでもないことが起きたんじゃないかと、だんだん不安になってきたんですね。翌日になったら女川町と連絡が取れないとか、南三陸町は壊滅だとか、石巻はほとんどないとかいう話がどんどん入ってきて、これはとんでもないことが起きたんだなと。それから、気仙沼が火の海だ、大島という私の住んでいるところにも火が移ったらしいというのが聞こえてきました。
−気仙沼市大島の状況は−
レジュメの後ろのほうに「祖父の遺言」というのを書いたところなんですけれども、一番後ろに新聞記事が出ています。資料5です。私の生まれたところは、この大島という島なんです。気仙沼湾に浮かぶ島で南北8キロ、周囲が22キロ、人口が3,000くらいの島です。私の実家は、この矢印のところだったんですね。ここには80を過ぎた両親が2人で住んでいたのですが、目の前が海です。次の写真の資料6が私の実家なんです。家の形は残ったのですが1階は完全に水が入ってしまったんです。下が裏から見たところで、松の木の下に見るのが堤防なんです。堤防に出ると(資料5)ナンバー4のような海が見える。ですから堤防と家というのは地続きになっているんです。(資料6)ナンバー3は家の中の様子なんです。こんな状況ですが、津波は大島を三分断する寸前だったようです。
資料5の地図で見ていただくとおわかりですけれども、田中浜から上がった津波と浦の浜港から上がった津波が中央でぶつかっております。小田ノ浜から上がった津波と浅根漁港からの津波が、もう少しでぶつかる直前だったということなんです。
この資料5の上の写真は、浦の浜港のフェリーが桟橋と一緒に押し上げられて、陸のほうのリフトの入り口のところに鎮座しているということで、船と船の間に見えるのは高さが4メートルぐらいのコンクリートの桟橋なんですね。ここに船がつないであったので、このコンクリートの桟橋もろとも持っていってしまって今ここにあるという状態です。私も何度か大島に行って、その津波の高さを見たのですが、大体15メーターから20メーター近い津波で、こんなところまで来たのかというびっくりするような高さでした。島の3分断というのは、実は私たちは小さいときから聞いていました。大島が大津波で3つに割れたことがあると。私は、てっきり三陸の大津波のときにそうだったんだろうと思っていたのですが、この記事によれば三陸の大津波のときでも島は3つに分断されなかったと言っていますので、私たちが聞いていた伝説というのは、その前の津波だったんだろうなというふうに今になって思います。
私の両親は、地震のときは(資料6)ナンバー4の堤防のところに出て堤防にしがみついていたのですが、上のほうに家がある弟の嫁さんが車で降りてきてくれて、足の悪い父親を連れて弟の家まで行ってくれた。母親は足が丈夫なので、裏山から弟の家に上がってて、津波が来るときには2人とも上のほうからそれを見ていたようです。
(資料6)ナンバー4の写真のコンクリートの桟橋があるのですが、桟橋の向こうがちょっとした半島がありますよね。白い家が見えるのですが、ここを乗り越えてきたと言っていましたね。ここを乗り越えてきて、実はここの真ん中あたりが、完全に家とか林が取れてしまって、弟の家から見ると、今まで見えなかった向こう側の海が見えるようになったんです。それぐらいの高さで迫ってきたということで、私の家がどうして残ったのか、むしろ不思議くらいなのです。おそらく、この屋根瓦が重くて何とか重量で持ったのではないかと思います。
そんなことで両親の安否もわからない、それから私の弟が気仙沼の市役所に行っているのですが、その日の午前中に今日はこれから議会だというふうに電話でやりとりしたものですから、弟は議会棟にいれば大丈夫だろうと思ったのですが、弟の子供が海岸から1キロくらいの会社に勤めているのですが、その安否が不明で、助かっているというのがわかったのは14日です。屋根の上に逃れ3日目に自衛隊のヘリコプターに救出されたということがわかりました。近いところでは亡くなった人はいなかったのですが、ちょっと離れたところだと私の母の従兄弟が孫と一緒に流されて行方不明とか、私の従兄弟の義理の母が行方不明とか、それから私の依頼者とか顧問会社とか、そういうところはいっぱい犠牲者が出ております。
−祖父の遺言−
最後の「祖父の遺言」のところから先にいきますが、実は私の母の生家というのは先ほどの地図で言いますと、私の実家のちょうど気仙沼湾を間に挟んだ向こう岸なんです。
3キロくらい離れていると思います。母の実家には母の弟が夫婦で住んでいたのですが、津波だということで車で逃げたので、預金通帳とか位牌などを置いたままでした。津波の後、実は浦の浜港で私の祖父の位牌が見つかって、たまたま祖父を知っている人がそれを見つけてくれて、3月21日のお彼岸の日に私の母のところに、届けてもらったのです。これは、そのとき撮った写真なんです。
(資料6)ナンバー5の写真に写っているのは私なんです。これは私の隣の部落、ここはもう壊滅的にやられて家が全くなくなったところなんですが、そこを歩いている姿なんですが、ちょうど母の実家というのは、この写真の向こう岸にあったんです。ここもほとんど壊滅的、部落が全くなくなったところなんですが、そこから流された位牌がどういう経路かわかりませんが、気仙沼湾をぐるぐる回って大島にたどり着いて、そしてお彼岸の日に私の母の手元に届けられたという、非常に稀な偶然があったんですね。それだけじゃなくて、流された母の一番古いアルバムを弟の嫁がそれを拾ってきて、アルバムを開いていたら、祖父の随筆が濡れた状態で出てきました。
それが資料7で、昭和50(1975)年に三陸新報という地元の新聞に書いたもので、その題が何と「津波」ということだったんです。そういう点でもびっくりしました。私の祖父はこういうふうに書いているんです。ちょっと字が小さくて申しわけないのですが、「海は我々の生活の場で人類を生かしてくれているが、反面、遠慮会釈なく犠牲を強いている。また従来、襲来した以上の大きな規模の津波は永久に襲来しないと断定する根拠がない」。常に備えあれば憂いなしということを書いていて、何かあの世から執念で蘇って私たちに忠告しに出てきたのではないかと思うようなこともございました。
−仙台を脱出−
そんなことで、津波が大変な被害をもたらしたということがだんだんわかってきたんですが、そのうち、実は原発が重大な局面に入ってきました。後で申し上げますが私は昭和50(1975)年に弁護士になったときから福島原発訴訟をやっていたものですから、今問題になっている事態がどれほど重大なことかということはわかっていましたので、12日、震災が始まった次の日、食糧がなくなったものですから修習生が自宅に泊まりにきていたのですが、修習生を連れてその夜に仙台からいったん避難をしました。もしあれが水蒸気爆発みたいなもので格納容器が割れたら、これは仙台だって危ないというふうに判断をして、鳴子の駅の前で一晩車中泊をしたんですね。完全に電気が消えていますので、外灯もないわけです。真っ暗な道路を車で行ったのですが、電気がついているのは消防署とか病院、警察署くらいのもので、それだけに鳴子の駅の前で見た星空が、こんなに星がきれいだったのかと思いました。水素爆発で建屋が壊れただけだしということがわかったので、次の日にいったんは戻りました。
その後、14日、15日に4号機、5号機の冷却が困難ということになって、これはやっぱりだめだろうということで、家族を説得して15日の夜9時ごろ車で避難を開始し、山形のビジネスホテルに一泊して、次の日どうするかと。飛行機をいろいろ調べたら、山形空港から羽田に出て夜の8時に羽田から那覇に行くという便が空いていたんです。沖縄に行くのかなというふうに思ったのですが、一方、自分の親族の安否が不明というところで私だけ逃げていいのかという気持ちもあったし、それから14日に仙台市内に関西の消防車とか救急車が、ものすごい数が入ってきたんです。本当にもうパレードのように、もういつまで続くんだろうと思うくらいの数がダーッと入ってきて、彼らは12日か13日に関西を発っていたはずなんです。だからそういうことを考えると逃げるというわけにもいかんだろうということで、結論としてはともかく秋田に行こうと。風向きと距離からして秋田なら大丈夫だろうというので、車で鶴岡まで行って、鶴岡の駅に車を乗り捨てまして、羽越線で秋田に出ました。今回の震災で一番被害のなかったのが秋田です。ですから、秋田のホテルでは企業間の懇談会とか何とか学校の終了式なんかやっているわけですよね。こんな日常をやっているんだという感じだったのですが、ともかくホテルに落ちついて、もし原発が収まるのだったら私一人で大島に入ろう、気仙沼に行こうということだったんです。
仙台は、実は12日からスーパーとかコンビニは食糧がほとんどない状態だったんですね。仙台でそういう状態だったのですが、秋田はまだそこまではひどくなかったんです。それでもコンビニに行くと電池なんかは全くありませんでした。それなら秋田で必要なものを買えるだけ買って気仙沼に行ったほうがいいだろうというふうに思って、タクシーの運転手に相談したら、LPガスはいっぱいあるので、タクシーであれば行って帰ってこれるというので、17日の1日をかけて粉ミルクとかいろいろなものを買い込んで、18日の朝に秋田をスタートして気仙沼に入ったという状態です。家族には、もし何か原発があったら、あなた方の判断で津軽海峡を渡るもよしということで別れていったのですけれども、気仙沼に行って私の弟が気仙沼市役所に勤めているので、弟の車で支援物資を海岸まで運び船に乗せました。
−気仙沼の状況−
その船というのは、先ほど写真で見せたフェリーが全滅だったので、たった1艘、小さな船が生き残ったのです。臨時船といって定期の船がなくなった後、遅く帰ってくる人を乗せるための小さな船ですが、それか津波に向かっていってかろうじて助かった唯一の大島の足として動いていたんですね。それに乗せてもらって大島に辿り着きました。そのときの気仙沼の状況というのは本当にすごかったですね。気仙沼市役所のところまでは水が入らなかったので、今まで見慣れた気仙沼の風景なんです。
市役所を曲がると、もうそこはまさしく、おそらく戦争中空爆された後はこうだったんだろうなという情景でした。世界が一変するという感じでした。家が全部崩れてがれきがどこまでも続き、やたら人が多いんです。普段は車はたくさん通っているのですけれども、歩いている人がなかなかいなかったのですが、歩いている人がいっぱいいて、リュックサックを背負って帽子をかぶってマスクをして、おそらく戦後間もないころの買い出しというのは、こういった風景だったんだろうと思うような風景です。魚市場のあたりは、加工場なんかがいっぱいあるのですが、これはもう壊滅です。建物の支柱は残っているのですけれども、中が全部素通しになっていて、鉄骨だけがむき出しになっている。木造の家屋はもう全部流されてないという状態ですね。それから、大きな油を入れているタンク、これがもう横倒しになったりひっくり返ったりして、その油が気仙沼湾に広がって火が付いて、大島にも飛び火して、亀山という山がかなり焼けたんですね。うちの両親は弟の家に避難したのですが、次の日は火事が迫ってくるというので、大島小学校の避難をさせられたようです。そういう津波プラス火事という状態で、本当に大変だったんです。
そういうことで、私は18日に秋田から持てるだけの物を持って大島に入りました。大島の対策本部に行って何が今足りないんだと聞いたら、米もないし、一番必要なものはアレルギー性の粉ミルクだというんですね。普通の粉ミルクが飲めない人がいるということで、すぐ秋田の家族に電話を入れて、もう一回買い出しをしてくれというので、アレルギー性の粉ミルクも含めて必要な物を指示して、20日にもう一回タクシーで気仙沼に支援物資を送ってもらいました。
−支援物資のヒット−
今回、僕が持っていった支援物資の中で一番ヒットだったのは、小さなLEDのライトですね。ピッと押すと電気がついて、日中お日様に当てておくと光るというやつです。つまり全部停電で、避難所も真っ暗なので、お年寄りがトイレに行くときの足元を照らすものがないんですね。うちにも懐中電灯はあったのですが、せいぜい1個だし、それから懐中電灯も使ってみてわかったのですが、起きたときにどこに置いたかというのを忘れてしまうんですよね。私がそうなので、おやじ、おふくろなんかになると余計そうなんです。ですから、私が持っていったライトを皆さんヒモをつけて、首にぶら下げて、トイレに行くときに付ける。これは秋田のホーマックみたいなところで見つけて、もうあるだけ全部買い占めて持っていったのですが、これが大変好評でした。「これで小野寺さん、あなたは市議会議員に当選する」と言われまして、そういう道もあるかなみたいな(笑)。
そんなことで20日に家族は秋田から仙台に戻り、私は22日に気仙沼から仙台に戻って、だんだん普通の生活をするようになりました。当初は、扱っている事件が遠のいてしまったという感じですね。ですから、世の中には金持ちもいるし貧乏人もいるし、心がけのいい人もいるし悪い人もいっぱいいあるんですけれども、日常というのは僕はその差を競っている場なのかなというふうに思うんです。しかし、それが根こそぎひっくり返ってしまうと、その差なんていうのはもうどうでもいいと。裁判も、裁判所から当事者の安否確認をしてくれと来るわけです。私の依頼者は2人亡くなりました。結局、安否が不明ということになってしまうと、裁判で争っていることなんていうのは、何だそんなものはという、そんな感じすらします。結局、事件のことが全然頭の中に入ってこないんですね。ですから、普通に事件ができるようになるまで2カ月ぐらいかかりました。私のところは、さっき申し上げましたように近いところでは誰も犠牲者がなくて、家は流されましたけれども、被害としては少ないほうでした。ですから、近親者を亡くされた方などが普通の生活に戻るというのは、よほど長い時間がかかるんだろうなというふうに思いましたね。【(2)へ続く】