杉井厳一弁護士が1月6日に死去しました。
当事務所開設時からの弁護士であった杉井厳一が、1月6日に死去しました。
1月10日に行われたお通夜で、同僚の宮本康昭弁護士が弔辞をしましたので、紹介します。
これまで杉井厳一弁護士にご愛顧いただいた依頼者と関係者の皆様に感謝申し上げます。
弔 辞
2019.1.10 弁護士 宮本 康昭
昔風な言い方ですが杉井さんは私の戦友でした。この30年近く一貫して杉井さんは私の戦友でありました。
主戦場は日弁連の、中でも司法改革ですが、司法改革は杉井さんがいなければできませんでした。私も全力投球でやりましたけれども、私の全力投球も杉井さんがいなければ到底できなかったでしょう。
日弁連での議論が終わると帰りの電車の中で二人でその話の続きをし、国立に着いて「おりる」と私がいうと「オレもおりる」と言ってついて来て、そこらのお店のカンバンまで話し続けるという、そんなことがしょっ中でした。
あの司法改革100万人署名も、私が、日弁連は10万人署名さえやったことがないのに、とおじけ付いて50万人署名にしようと言い出したら、杉井さんが「ダメだ絶対100万人だ」とがんばって、とうとう176万人まで積み上げてしまったのでした。これが司法制度改革の大きな推進力になったことは誰もが知っています。裁判員制度も、法テラスも、被疑者国選弁護も、裁判官任用の透明化も、いまあるこれらの制度は杉井さんがいなかったらおそらくなかったでしょう。
司法改革が一段落して杉井さんは、ご夫妻で事務所を作り、私は経営にはまったく役に立たないのに声をかけられて参加しました。
杉井さんは意欲的にダイナミックに仕事をしていました。最近では別荘地の住民の地代値下げの集団訴訟がありましたが、私が「今どき値上げはあっても値下げなんて通るわけがない。しかも財産区という権力相手ではとてもだめだ」と言ってもやりつづけて一審敗訴を高裁で大逆転して最高裁でも認められました。これなんか判例として将来にも残るものだと思うのですが、杉井さんは余り誇る風もありません。
一方で杉井さんは事実と理くつをギリギリ詰めて追求していくやり方だった。それで自分と同じことを他人もできるものだと思っているらしくて、それができない人を厳しく詰める。場合によっては態度と声に出る、ということがあったようです。杉井さんからドナリつけられるという被害を受けた人は少くないはずです。
しかし、その特徴は、そのドナリ声の向け方が平等だということです。杉井さんが電話でさかんに相手にドナっていることがありました。「何をアンタは」なんて言っているのです。あとで「誰に電話してたの」ときくと裁判官だというのでエッと驚いて「裁判官だったらもう少し言いようがあるんじゃないの」というと「いや、あんまりわからないこというから」と、私の言った意味がよく理解できていないようでした。
川崎の裁判所では杉井さんのことを瞬間湯沸かし機と言っていたそうですね。何にしても、相手が誰であれ同等の扱いをするというのが杉井さんのすばらしいところでした。
私はというと、30年間に一度もドナリ合ったり、ドナられたりということがありません。宮本だから、誰だからと加減をするような人ではないので不思議なことです。
杉井さんとは、私の葬式をどうするか、という話をしていました。私は「こういう曲を流して貰いたい、それからこのうたをこういう人に歌って貰いたい」とかなり細かい希望を出しました。杉井さんはなかなか難しいけどやってみようと言っていました。
しかし、二人は杉井さんの葬儀については何も話をしていないのです。それは二人とも杉井さんの方が私より早くいなくなるということを考えていなかったからです。だから杉井さんに先にいかれると私はどうしていいかわからないままに、こうしてここに立っているのです。
私の戦友に、安らかに眠れと言いたいけれど、しかし戦いはまだ半ばだったのです。今逝くべきではなかった。それが口惜しい。