コラム2:生(なま)のオバマ・スピーチを見聴きして
2009.12 弁護士 杉井 静子
オバマ米大統領のスピーチは日本語の「どうもありがとう」で始まった。そして、幼い頃母に連れられて鎌倉に来たことがあり「平和と静寂の象徴だった」巨大な大仏を見上げた思い出に続いて、「ただ子どもだった私は抹茶アイスの方に夢中だった」と語ると聴衆はどっと笑い、同時に拍手喝采がわき起こった。
この巧みなスピーチの導入に私も拍手しつつ、にわか仕込みのカメラのシャッターをきった。
また、「オバマ(小浜)市のみなさん」と呼びかけるなど配慮の行き届いたスピーチの始まりだった。
場所は東京都内サントリーホール。時は2009年11月14日午前10時。日本有数のすばらしいコンサートホールで二階席からも遠くても大統領の姿は全身がばっちり見られたし、同時通訳器のお陰で内容もよく理解できた。
この演説会、朝日新聞でも招待者の顔ぶれが多彩なことが報道されている。「なぜ杉井静子が招待されたのか?」と疑問に思う向きもあるかと思う。11月10日に私のところにアメリカ大使館から電話が入った。なぜ私の電話番号を知っていたのかというと、どうも子どもの奪取に関する「ハーグ条約」についての日弁連と米大使館の懇談会のとき、名刺交換をしたからのようである。
ラッキーなことに当日(土曜の午前)はあいていた。しかし、入場者は事前に指定された日時にチケットを取りに行かねばならず(これは日下事務局員の手をわずらわせた)、当日も8時までに集合とのこと。持物検査もあり、警備体制は相当厳しいものだった。それでも生(なま)のオバマに今後会える保障は全くないので、万難を排して(本当はミーハー的興味から?)駆けつけたのだった。
スピーチの内容はマスコミ報道にあるとおりのアジア外交の基本政策であったが、オバマ大統領は自分がハワイで生まれ、インドネシアで少年期を過ごし、母は東南アジアの村でほぼ10年近くを生活したことをあげて、自らを「初の太平洋系大統領」と呼び、アメリカを「太平洋国家」だと宣言したのが印象的だった。
そして気候変動とのたたかいを語り、プラハでの演説に引きつづいて日本とアメリカの2カ国以上に核兵器が何をもたらしうるかを知っている国はなく核兵器のない未来を目指さなければならないことを熱っぽく語った。
また、自由と尊厳を求めることはすべての諸国民に共通する物語の一部だとして、我々は法の支配や司法の平等な適用への信頼、このような権利を求める人たちの味方だとして、スー・チーさん(ミャンマーの政治家)を含むすべての政治犯の無条件釈放にも言及した。
恐らく(?)とても分かりやすい英語で心に響くスピーチであった。
しかし、日米軍事同盟の進化・発展を強調し、日本に米国の若い男女の軍人たちが駐留していることを誇りに思うと語ったことには、日米安保条約がある以上当然といえば当然なのだが、これが米国大統領の限界かとも思った。
尚、この演説会はスピーチの前にすてきな弦楽器の生演奏があったほかは、「主催者」をはじめ型どおりのあいさつは一切なくオバマのスピーチのみであった。まさに“simple is beautiful”であった。